『西部戦線異状なし』。Netflix配信、2022年のドイツ映画です。感想、考察から、戦場の背景、あらすじまでを2回に分けて書きます。こちらは1回目です。(あらすじは本記事最後の章にまとめています)
ドイツの文豪エーリヒ・マリア・レマルクの同名小説『西部戦線異状なし』は、過去2度、アメリカで映画化され、世に出ています。2022年公開された本編は、レマルクの国、ドイツで作られたドイツ映画です。映画が制作されたのは、第一次世界大戦が終わってほぼ100年。これは偶然ではないでしょう。なぜ、いま、『西部戦線異状なし』なのか?
「西部戦線って、ナニ?」というシンプルな疑問に答えながら、シーンを読み解き、映画のメッセージをすくいとってみたいと思います。(ブログ2回目では原作との対比など、兵器のことも書きます)
『西部戦線異状なし』あらすじです(ネタバレあり)
第一次世界大戦。西部戦線。
祖国のためにと、ドイツの高校生17歳のパウルは仲間とともに陸軍に志願。西部戦線に送られる。
そこで待っていたのは栄誉も英雄いない塹壕戦の凄惨な現実だった。
最前線の塹壕と、後方陣地でのわずかな休息の繰り返しの日々。
敵は、フランス兵のみならず、空腹、そしてずぶ濡れにする雨。そして寒さ。
パウルの顔からは突撃のたびに表情が消えてゆく。一人また一人と倒れていく仲間たち。
戦線は膠着し若い命だけが無為に失われてゆく。
ドイツは連合軍に停戦を申し入れ、停戦の日付と時刻に両国代表のサインが入れられる。
書類に記された停戦日時は「1918年11月11日の午前11時」だ。
ようやく戦争が終わり、家に帰ることができる、、、とホッとするパウルら最前線兵士たち。
『西部戦線異状なし』あらすじ〜ネタバレ結末〜閲覧注意!
ここからは結末までのネタバレとなりますので、映画を観る方は、決して読まないでくださいね。
しかし、前線の将軍は戦わずしての停戦を認めない。
最前線兵士にギリギリまで突撃を命ずる。
主人公たちは、停戦日時までのわずかな時間、フランス軍塹壕への突撃をかける。
パウルは、フランス軍兵士の銃剣に倒れる。
かつてのパウルのような若い補充兵がやってくる。
…という結末です。最前線の兵士たちの「11月11日午前11時」….無情なラストで映画は終わります。
『西部戦線異状なし』解説〜そもそも「西部戦線」って、ナニ?
「西部戦線って、何??そもそも「戦線」ってなんですか???」って思いませんか?
ぼくは少しばかりミリオタ入ってた子ども時代を過ごしました。
小学生中学生あたり、第二次大戦の戦車や戦闘機、軍艦のプラモ漬けの日々でした。読む本も戦争系。で、よく出てくる言葉で、当時イマイチ理解できない言葉がありました。「戦線」です。戦争ものやニュースでもたまに出てくるワードなので、なんとなくわかった気になってましたが、言葉で説明できませんでした。
だって、日常の生活には、そんな線、ないですから。。。
それから数十年。今回取り上げる映画『西部戦線異状なし』には、そのワードがタイトルにズバリと入っています。なのでまずは、「西部戦線って、ナニ?」への答えを、今のぼくなりのコトバで書いてみたいと思います。
今からほぼ100年前、第一次世界大戦のヨーロッパで、ドイツがフランスイギリス両軍とぶつかった「ところ」が西部戦線と言われています。
この「ところ」が肝心。
一国と一国が喧嘩する戦争での「戦闘」って、一ヶ所にとどまらないわけです。あっちでぶつかり、こっちでもそっちでも戦ってる。戦場という「ポイント」が同時にたくさんあるわけです。
では、「ポイント」をたくさん作って点線のようにしておかないと、どうなるか?
敵がポイントとポイントのヌケてる間からコソッと後ろに回り込んで、後ろからやられることになります。
そのいくつもあるポイントポイントを繋いでいくとライン=線になりますね。それが戦線です。
第一次世界大戦の時、ドイツの「西」にヒョローんとヒモのように「戦いぶつかりあう線」がありました。それが「西部戦線」なのです。その長さ、1000キロ。ちなみに東にも同じような感じのラインがあり、東部戦線と呼ばれています。といってもピンときませんよね。なので、わかりやすいようにマップを作ってみました。
『西部戦線異状なし』解説〜描かれるのは塹壕戦の醜悪さ
『西部戦線異状なし』の舞台となる西部戦線のラインは、何重も奥行きがある「塹壕」でつながれていました。塹壕って、要は兵士が隠れて移動できるように地面に掘られた、「長いミゾ」です。そのミゾは一本の糸のように横たわっているのではなく、何本も川の字をヨコにしたみたいに掘られていたんですね。
ドイツ軍と英仏軍は、その塹壕を「とったり、とり返されたり」を繰り返していたのです。
では、塹壕を奪うためにはどうするか?
当時のそれは「突撃!」あるのみです。
数百メートル先に横たわる敵の塹壕まで、向こうから雨あられのように撃ち込まれる機関銃の弾幕と炸裂する榴弾の中を「わーっ!」と突っ走っていく。
運良く榴弾の破片にもやられずタマに当たらず敵塹壕に辿り着いても、その塹壕内にいる兵士は当然簡単には降参しません。(大砲の弾の炸裂でなぜ死ぬかというと、大砲の弾は、地面で破裂すると何百もの破片=ナイフのように砕け飛び散り、周りにいる兵を殺傷するのです)
塹壕内で待っているのは、敵兵の必死の反撃です。
塹壕内は狭いです。
結果、ミゾの中では近接戦(白兵戦とも言います)で互いに殺しまくり、あるいは殺されて、「生き残りが多い方がその塹壕をゲットできる。」そんな血で血を洗う戦いです。映画で大切に描かれるのは、その様子です。
当然ながら、一回の突撃での兵士の戦死率はとても高いものだったと言います。
戦死者続出。当然次に突撃できる兵が足りなくなる。と、どうしたのか?
答えは、「後方から次々と補充の若い新米兵が送り込まれてくる」です。
で、次の突撃でまたバタバタ死んでいく。その繰り返し。
それが第一次世界大戦の西部戦線でした。
戦場となるそんな塹壕ですが、先にも書きましたが、西部戦線ではどのくらいの長さだったかというと、スイスからフランス国内をドーバー海峡に落っこちるところまで長々と続いていたと言います。
延々と「とったとられた」の戦いが繰り返えされていたその現場が、まさに映画『西部戦線異状なし』に描かれた、異常な世界です。
『西部戦線異状なし』2022〜ぼくのいくつかの考察
塹壕戦ではあることが繰り返される
映画『西部戦線異状なし』では、塹壕戦が3度繰り返されます。
「繰り返し」というワードが自然と出てしまいましたが、『西部戦線異状なし』の映画の中では、その「繰り返し」がとっても大きな意味を持っています。
映画冒頭からマユひそめるような塹壕戦の火ぶたが切られます。
壕内でびびり、うずくまる新兵。そこに
「ハインリヒ!突撃するんだ!」と上官からどつかれる若い兵卒。
恐怖が張り付いた顔で(この表情が、心に張り付いて離れない。…うまく文に書けません)、敵塹壕に向かい走り始めるハインリヒ。
機銃弾に、炸裂する榴弾に、左右を走る兵たちが次々と倒れていく…。
弾は切れ、敵兵にスコップを振り下ろすハインリヒ…
場面変わって、折り重なる戦死した兵から、弾の穴があいた軍服が脱がされる。
血まみれの軍服が大鍋に投げ込まれ、煮沸される。
また、場面が変わって、どこかの工場。
工場内では女性たちがずらりと並ぶミシンで、煮沸された穴あき軍服にパッチが次々と縫い当てていく。
カメラに映るその軍服のタグについている名前が、突撃していた兵士の名「ハインリヒ」の文字が記されている。。。
↑このシーンで、冒頭の突撃した恐怖に顔こわばらせていた兵士が戦死していたことがわかります。
その一連のシーンから発せられているのは、「戦争においては、人の名前はなんの意味も持たず、命も「繰り返し」消耗されていく」というメッセージにほかなりません。
終始セリフが少ない冒頭から10分ほどのシークエンスには、すでにこの映画が送りたい「気をつけろ、歴史は繰り返されるぞ」というメッセージが隠されているのです。
もしこれから『西部戦線異状なし』をご覧になるなら、ぜひこの「繰り返し」というキーワードを気にかけてみてください。
理解が深まるかと思います。
戦場では個人の名前はいらない
さて、そうしてパッチされた軍服を、のちに入隊検査所で渡されるのが、18歳(17歳だったかな…)の若者です。彼が『西部戦線異常なし』の語り部であり、主人公パウルです。
そのシーンで、渡された軍服から、あるものが床に外れ落ちます。それは何か?
「ハインリヒ」と書かれたネームタグです。
戦争というバケモノの前では、「個人の名前」なんて軽くなる…その事実を伝える名シーンだと思います。
フランス軍兵士・印刷業のジェラール・デュヴァルのこと
以下は、劇中、非常に大切なシーンで、ネタバレになります。閲覧注意です。(もっとも過去2作においても有名なシーンです)
中盤の塹壕戦で、パウルは一人のフランス兵と2人きりとなり、ナイフでフランス兵の胸を刺します。
フランス兵が絶命寸前、後悔にかられたパウルは、フランス兵の手帳を見つけ、「家族に届ける」と、約束します。その時、妻と子の写真が入った手帳に書かれている名前が、
『ジェラール・デュヴァル 印刷業』。
どきりとしました。
個人の名前が意味をなさない、と書いた戦場において、唯一、名前が、観客に深い思索を促すシーンなのです。
そのシーンは、言葉詰まり観ているぼくに、こうメッセージを投げかけました。
「死んでいった兵士一人一人に名前があり、家族があり、仕事があった。それはすなわち脈々と過去から繋がれた、崇高な一人の歴史だ。その歴史を一瞬で終わらせる。それも大量に無慈悲に…。それが、戦争である」
映画に描き出された醜さと美しさ
『西部戦線異状なし』の冒頭は塹壕戦シーンだ、と書きましたが、実は戦場シーンに先立つ数カットがあります。
それは、兵士や武器、塹壕内のカットではありません。
森や狐の親子、山並みの美しさを見事に捉えているカットから『西部戦線異状なし』はスタートするのです。
究極の生命の美しさを映したあとに、戦場が映し出されます。
ここに、『西部戦線異状なし』のメッセージが早くも隠されています。
自然、森、木々、狐、昆虫、蝶…といったあまりにも美しい表現カットが、劇中あちこちでさしはさまれます。
心象風景と言っても良いほどの美しさですが、決して兵士の心象を表していないことは、映画の内容を見てもあきらかです。
たとえば、「明るい面」を絵で表現しようとするならば、必要となるのは「暗い部分的」です。暗さを描かないと、ただ真っ白な絵になってしまう。
同様に「醜さ」「汚さ」を際立たせるためには、真逆の「美しい何か」が必要となります。
『西部戦線異状なし』では、とことん「戦争の醜悪さ」を観客に伝えるために、逆モチーフをあえてもってきているんだ…と、気づきました。
主人公パウルの表情にも、その対比は表れています。学校に通っている時、入隊したばかりのパウルの表情は、それは天真爛漫と言っていいほどの「笑顔」です。
ところが、塹壕戦に送り込まれるとその笑顔を消え、無表情、最後は悪鬼のごとき表情にも変化します。
2度映画を観ると、よくわかります。表情の変化をつけた意味を納得します。
観客は、意識せずとも、笑顔のパウルが無表情のパウルに変わっていくことから、戦争の凄惨なリアル受け入れることになります。
『西部戦線異状なし』感想・評価まで
ドイツが作る戦争映画は容赦がない
古典的潜水艦映画『Uボート』もそうでしたが、ドイツの作る第二次世界大戦テーマの映画はラストに容赦がありません。ヒーローものなんて御法度!的空気さえ感じます。(『Uボート』←過去記事こちらです)
多分それは、第一次・第二次大戦の続けての敗戦を通して、ドイツ人が学んだことなのでしょう。
日本人のぼくらは多分持ちえていない、戦争に対する深い負の感情が根を下ろしているのだと思います。(もちろん日本人もドイツと同じように戦争に突っ走った国です。戦争に対する負の感情はしっかり持っています。「もちえていない」とは、「異質な負の感情」をさしての表現です)
「隣国と地続きかどうか?」「日本人が、「言わなくてもわかる」が共通認識としてある国民性=農耕民族系思考であるのにに対して、ドイツ人の持つ国民性が、極めて、「名言化」が求められる狩猟民族的な思考の合理性が求められるから」が、映画表現にも表れているのでは?と、思います。
『西部戦線異状なし』は、これからを担う世代に向けての『手紙』だ
おっと、話がそれていくので戻しますが、『西部戦線異状なし』のラストも容赦がありませんでした。
でも、『西部戦線異常なし』のラストは、1918年から100年経った今、新たに未来へ向けて作られた『遺産』であり、これからを担う世代に向けての『手紙』だ、とぼくは受け止めました。
「若者たちよ、言われるがままになっていると、またこうなるよ」
「大義をかざすエラい人たちの言うことを鵜呑みにしたら、また歴史は繰り返すよ」
『西部戦線異常なし』はいくつものメッセージを発していますが、特に強く感じたのはその2つでした。
ぼくの評価は?
ちょっと長くなってしまいました。『西部戦線異状なし』レビューをここまで読んでもらってありがとうございます。ぼくの評価は五つ星です。
原作との違いについて、また登場する兵器のことなど、別考察は別ブログ記事2回目でまとめます。
『西部戦線異常なし』スタッフキャスト
以下スタッフキャストデータは「映画.com」より転載します。
スタッフ/監督エドワード・ベルガー 原作エリッヒ・マリア・レマルク 脚本エドワード・ベルガー レスリー・パターソン イアン・ストーケル 撮影ジェームス・フレンド 美術クリスティアン・M・ゴルトベルク 衣装リジー・クリストル 編集スベン・ブデルマン 音楽フォルカー・ベルテルマン
キャスト/フェリックス・カメラー(パウル) アルブレヒト・シュッフ(カット) アーロン・ヒルマー(クロップ) モーリッツ・クラウス(ミュラー) エディン・ハサノビッチ(チャーデン) アドリアン・グリューネバルト(ルートヴィヒ)他
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