『バードボックス バルセロナ』ネタバレ「正体」考察・続編解説〜あらすじ最後まで〜ラスト「それ」は明かされる?

スリラー・SF・アクション

こんにちは!運営人の映画好き絵描き・タクです。今回のムービーダイアリーズレビュー作品は『バードボックス バルセロナ』です。

「目隠し」が社会現象にもなったとも言われる『バードボックス』シリーズですが、「現象」になるほどの映画なのかどうかも含めて、2作目・『バードボックス バルセロナ』レビューです。



『バードボックス バルセロナ』解説

『バードボックス バルセロナ』は、シチュエーションスリラー『バードボックス』のスピンオフ続編です。物語自体は一作目『バードボックス』の「続き」ではありません。舞台も異国の地・荒廃したバルセロナとなっています。

同じなのは、前作でもハッキリとは明かされなかった「それ」の存在、そして「光景」をみたものは自死してしまう…という点です。ですので、純粋に続編と思ってみると肩透かし喰らうと思います。



『バードボックス バルセロナ』予告編




『バードボックス バルセロナ』あらすじは?

セバスチャンと娘アンナ

 『バードボックス バルセロナ』の舞台は、荒廃したバルセロナ。

白日の元に晒され、目で光景を見ると自殺してしまう謎の「それ」から逃れるべく、人々は目隠しをして外を歩いている。

主人公セバスチャンは、娘アンナと二人、荒れたバルセロナをさまよっていたが、数人と出会い、バスの中に匿ってもらうことになる。

しかしなぜかアンナはそこにはいない。

突然、バスのエンジンキーを回し、日差しの元にバスを飛び出させるセバスチャン。

突然「光」の世界に連れ出された人々は全員が自死してしまう。

映画では自死した魂の昇天が描かれる。

どうやら、アンナはすでに死んでおり、セバスチャンは愛する娘の魂とともにいたいがために、自らを「羊飼い」と称し、人々を光の国(死)へ送り届ける=自死へと誘うことをしているようだ。

ニセ預言者と教団

物語は「それ」が蔓延した時のセバスチャンとアンナの状況を見せながら、「それ」を神の奇跡「光」とみなし、自らを預言者だと信じる神父の存在を明かしてゆく。

そして、「それ=光」を強引に見せることで人々を自死へと導く狂信者となった神父率いる組織の存在。

安全への逃避

セバスチャンはまた別の人々と行動をともにするが、娘を思い出させる女の子ソフィアの存在で、アンナの魂の声に迷いを覚え始める。羊飼いが迷える羊となる。

ソフィアは客船に乗船する途中に「それ」が現れ、母親と生き別れ、グループの一人に助けられたドイツ娘だ。

ソフィアは「バルセロナのモンジュイックの丘の城は安全だ」との情報を彼らにもたらす。ラジオの緊急放送で聞いたという。

安全地帯・モンジュイックの丘へ

モンジュイックの丘はケーブルカーでいけるはずだ。

目指すはモンジュイック城。

城を目指すグループの彼らはしかし、セバスチャンの迷いと狂信集団の追撃で一人また一人と自死してゆく。

その逃避行の中で、「それ」をみた者は、「過去のトラウマの声を増幅し、結果、自死へと追い込まれる」ことが漠然とだが明かされてゆく。

生き残った精神科医のクレアとソフィア、そしてセバスチャン。

セバスチャンは魂となり現れる娘アンナの存在に疑念を抱き始める。本当に、自分の前に現れるのは、娘アンナなのか?

モンジュイックへのケーブルカー乗り場へと逃げる3人を執拗に追う神父たち。

はたして彼らは約束の地ー安全地帯モンジュイックの丘に辿り着くことができるのか?


『バードボックス バルセロナ』あらすじ最後まで〜ネタバレ注意!

ここから先はネタバレラストまでのあらすじとなります。映画を観る方は閲覧注意です。

ケーブルカー搭乗口へのラストラン

セバスチャンは、クレアとソフィアをケーブルカー乗り場へと急がせ、自らは砦となる覚悟を決める。

そして疑念は確信へと変わった。娘の霊は狂信者神父の作り出した幻影だった。預言者を名乗っている神父は、預言者への憧れが狂気にすり替わった偽預言者にすぎなかった。

セバスチャンは、アンナの幻影は神父と同一であることを見抜き、自らの命と引き換えに神父を倒す。

クレアとソフィアはケーブルカー乗り場最上階へと辿り着くが、「それ」が近づく。

クレアは、ソフィアを助けるために、目隠しを取る。過去のトラウマの声が響く、しかし「それ」はクレアには作用しない。

過去のトラウマへの決別を果たしたクレアはソフィアを無事ケーブルカーへ乗せる。

コロニーにて

ケーブルカーでモンジュイックの丘にたどり着いた二人を待っていたのは、兵士や民間人が安全に暮らすコロニーだった。

テントの中を行き交う軍人と研究者、そして助け出された「それ」の影響を受けずに助けられた民間人たち。

中には生き別れたソフィアの母の姿が。母娘は再会を果たす。

「それ」の正体は??

クレアは研究棟に連れて行かれ、「それ」に対処できるDNAワクチンの開発が進んでいることを明かされる。

どうやら「それ」が人を自死へと誘う原因は、心的外傷が急激にDNAに変化をもたらすことらしい。マウスを使っての研究が進められている。

場面変わって、隔離室。そこでは「それ」を見た感染者が拘束具をつけられている。

光の向こうを見た、と叫ぶ狂ったような感染者。

エンドロール。


『バードボックス バルセロナ』ネタバレ考察感想

一作目の『バードボックス』がヒットしたことを受けての二作目『バードボックス バルセロナ』ですが、内容は、全く別物です。

制作はスペイン映画陣です。バルセロナを舞台にしています。

バルセロナをディストピアに表現してしまったデザインには、目を見張りました。どうやって撮影したんだろう???と。最近の映像進化には目を見張りますね、ほんと。

荒廃したバルセロナ、、、バルセロナに旅したことがあるひとは、どう感じるのかな?ちなみにぼくもバルセロナに滞在したことがありますが、映画のトップ、上空から俯瞰した碁盤の目バルセロナショットにニヤニヤしていました。

全体的に一作目に比べてハラハラドキドキ場面が多く、「よりハデに行こうぜ!」的なノリです。

謎の教団(?)も登場します。自ら預言者になりたかった、ようは精神的に壊れてる神父がストーリーの核になってきます。

しかし、どうもわかりにくい。暗示的な表現ばかりが多く、すっきりしません。

主人公の存在や思考、さらにはストーリー全体にキリスト教的世界観を色濃く滲ませています。が、キリスト教以外の宗教を持つ観客には(ぼくのような)、はたしてどう受け止められたんだろう?と疑問がわきます。

手探りシーンに隠されたヒント

あちこちのシーンにヒントが隠されているようです。理解の助けになるかどうかわかりませんが、ぼくがわかった一つを書いておきます。

例えば、ある部屋で手探りしている主人公たちの手元のそばに置かれている人形が、最初は家族で、次がオオカミ、三つ目の人形は天使ですが、天使の人形は落ちて割れてしまう。(その後にセバスチャンはアンナ=天使=の幻影に決別する)

家族人形は「聖家族」のことで、迷える子羊。そしてオオカミ人形は多分、「羊飼いだと思っていた自分はオオカミだった」と悟るマエフリなのでしょう。続く割れる天使人形は、アンナが嘘の幻影だということへの伏線なのでは、と思いました。(ハズレているかもしれません)

しかし、ぼくは、映画の中に延々続く、そのキリスト教宗教観がダメでした。ピンとこないし、よくわからなかった。

宗教的な要素をストーリーに絡めるのは、こと、娯楽映画においては、そのサジ加減が難しいもんだな、、、と、改めて思いました。もっとも運営人のぼくの理解力のなさゆえかもしれませんが、、、。

一作目『バードボックス』を見た時は、作品の「裏メッセージ」をあれこれ考えさせられたのですが、『バードボックス バルセロナ』を観て、そういった「思索」は起こりませんでした。。。



『バードボックス バルセロナ』正直感想

『バードボックス バルセロナ』、正直な感想をストレートにいきます。

頑張っていい映画を作ろうという気持ちは認めますが、ぼくは、残念ダメでした。

まずは映画のアイテムとなる「目隠し」が息苦しくなり、生理的にダメ。

コロナ禍の時の「マスク」にも似たような、精神的な息苦しさです。

映画陣はもちろんコロナ禍を意識していたと思います。それはわかるけど、しかし、きつい。

登場人物達がマスクならぬアイマスクをするシーンは「おいおい、またか、、、」という気分で見ていました。

独特なキリスト教的世界観も、ムズムズしてしまい、ダメ。

また、全編通して、皆が腰紐?つけて目隠ししてぞろぞろ歩くシチュエーションが、子供の時に遊んだ「目隠しオニ」を思い出してしまい、つい「苦笑い」になり、ダメ。そこ、笑うとこじゃないぞ!と言われそうですけど、ぼくはププっとなっていけませんでした。

『バードボックス バルセロナ』「それ」の正体への一考察

ネタバレとなりますが、ラストの軍人達が安全なコロニーで「それ」の研究しているシークエンスも、言い訳がましく唐突すぎて、ぼくは、バツでした。

「それの正体」が明かされるかと思いきや、これまた歯に衣着せたような、微妙なあかし方です。

途中、量子力学で自分が一番考えていることが目の前に現れるというくだりがありますが、そことの繋がりも、「それ」がやってくる時の独特のカメラワーク」も、どうもハッキリしません。

確かにラストで「それ」に対処できるDNAの対処研究が進んでいることは明かされます。

「それ」は心的外傷に強烈に作用する「何か」であることも示唆されます。

ですが、それ以上の「それ」の正体は〇〇なんだよ、とはっきりとした明かされ方はされません。

劇中「それ」がやってくる時は、まるで「意志を持った何か」が迫ってくるようなカメラで表現されます。

「それ」は見る人間が勝手に作り出した幻影と考えることもできます。そうすると、「それ」は人間の精神に作用するトリガーのようなもの、、、とぼくは推測しています。

そのトリガーがなんであるのか?は正直わかりません。

しかし、以前、こんなドキュメンタリーを見たことがあります。皆さんの理解のヒントになるかどうかはわかりませんが、ぼくの中では大きなヒントになっている歴史的事実です。そのドキュメンタリーの内容をちょっと書いておきます。

「正体」へのヒント=オーストラリアのウサギたちの大量自死

それは、オーストラリアのウサギたちが、ある時突然大量に自死するというものです。

元々オーストラリア大陸にはウサギはいませんでした。大陸に移住したイギリス人が狐狩りのために持ち込んだのがウサギでした。

ところがウサギたちは新天地で大繁殖します。理由は天敵がいないから。

しかし、繁殖に繁殖を重ねたうさぎたちは、ある時、突然、大量に自死し始めるのです。そして、多分、生きていくにちょうどいい数に戻る。

理由はわからないとのことですが、それが多分、自然の「摂理」=理(ことわり)と言うものなのでしょう。

ぼくは『バードボックス』シリーズ一作目を見た時から、実は「オーストラリアのウサギたちの大量自死」のドキュメンタリーエピソードを思い返していました。

ウサギたちの気持ちになれば、「訳わからないけど死ななければならない!」と思っての行為だと思うのです。

人間に置き換えるならば、こうなります。

理(ことわり)の臨界点に達した人間たちか?

「自然の何かに摂理の臨界点に達した人間たちの存在が、オーストラリアのウサギたちのように自死し始める。」

「それ」は「大いなるものの摂理」で、人間たちの成してきた何かが理の臨界点に達した。これがぼくの中では一番スッキリする「それ」への考察です。(多分、ハズレていると思いますので、あくまで一つの考察ということで…)

『バードボックス バルセロナ』評価

「それ」の「明かされ感」は結局モヤモヤムニャムニャ…。微妙すぎて、客を弄ぶのもいいかげんにしてくれよ!と席たったぼくでした。

「微妙」が悪いのではありません。

心のうちを描く人間ドラマでは、微妙表現ももちろんありです。

しかしこの映画はレッキとした娯楽ディストピアホラームービーですよね。

制作陣、どこかスジを履き違えてはいやしませんか?と物申したくなりました。…あ、…実は、人間哲学ドラマだったりして、、、そうであれば、ぼくが単に読み解けなかっただけかもしれません、、、、

ということで、残念ムービー・お蔵入りです。 

一作目『バードボックス』についてもレビューしています。よかったらこちらからどうぞ。







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