アニメ『木を植えた男』あらすじ・解説・考察です。アニメーター経験者が評価レビュー

アニメ

フランスの作家ジャン・ジオノが書いた、一人の男が荒地を豊かな森にかえていく物語があります。その物語をカナダのアニメーター・フレデリック・バックが丁寧なアニメーションで映像化した作品。観ると実話のように思えますが、ジャン・ジオノが見聞きしたことから作り上げられたフィクションです。アニメーター出身で画家となったmorinokumaの独自視点で、短編映画をレビューします。




『木を植えた男』あらすじは?

一人の若い旅人がいた。時は1913年。旅していたのはフランスのプロヴァンス地方の高地。さまよっていたのは、打ち捨てられた村々しかない、人が踏み入らぬような荒地だ。

水筒の水がつきかけていたところに、彼はひとりの羊飼いと会う。

水を飲ませ、家に連れて行ってくれた羊飼いは、地方の村々の貧しさ、人の心の荒れた様子を話して聞かせる。

そして、ふと、たくさんのどんぐりを旅人に見せる。

羊飼いのことをもっと知りたくなった旅人は、羊飼いに同行を願い出、彼の一日に同行する。そこで目にしたのは、荒地にていねいにどんぐりを埋めてゆく羊飼いの姿だ。

聞きくと、3年前から荒地にひたすらに、どんぐりの種を植えているという。もちろん全ての種が芽を出すわけではない。

羊飼いは何を思って種を植えているのか?植えている土地は彼のものなのか?彼の過去を聞き、旅人はまた旅をすすめる。

時は移り第一次世界大戦。従軍した旅人は、復員後、ふと羊飼いの元を訪ねたくなり、プロヴァンスの山中へと再び足を運ぶ。そこで彼の見たものは

荒れ果てた地を緑溢れる大地に変えた、たったひとりの男の物語です。

アニメーションに興味のない方は、フレデリック・バックのアニメーションの絵柄で作られた絵本も出ていますのでご覧になってみてください。絵本も名著です。

例え一人であっても、正しいと思うことを無償で為すことの高潔さをこの物語は訴えます。

『木を植えた男』解説〜どんなタイプのアニメ?

アニメーターは『木を植えた男』をこう見た!

制作年は1987年。当時、ぼくはアニメーター2年目でした。テレビアニメの原画を担当していました。

「すごいアニメがある」と聞いて、劇場ではなく、上映会で観たと記憶しています。

「こんなにも絵を丸ごと美しく動かすアニメーションって、あったんだ」

それは頭を殴られたような衝撃でした。

当時アニメは基本、ポスターカラーで描かれた「背景画」と、透明セルロイドにコピー&着彩された「セル画」=キャラクター以外は透明なセルロイドシート=から成り立っていました。(今はデジタルデータで作られるので、セル画という存在は無くなりました。背景がもかなりデジタル化されていると聞きます)

一般的に、背景は背景画家が担当。セル画の元絵原画・動画を、アニメーターが描きます。徹底した分業化と、関わる大勢のアニメーターがいて、一本のアニメは出来上がるのです。

ところが『木を植えた男』は、背景とキャラクターが同時に動きます。

日本製アニメでは考えられない制作の丁寧さ

どういうことかというと、一枚の紙に色鉛筆で全てを描き、何万枚という作画を重ね、撮影し、動きを作り出しています。

一部は背景に止め絵を使い、動く部分だけを作画しているシーンもあるのですが、その動きの柔らかさ、あたたかさに度肝を抜かれました。

アニメならではの得意技に「メタモルフォーゼ」があります。「メタモルフォーゼ」は、あるモノを別のモノに変化させることです。本編ではフルアニメを生かし、シーン丸ごとメタモルフォーゼが次々と物語を進めます。めくるめくような変化は、まるで目で音楽を聞いているようです。

そして、作っているフレデリック・バックは、そんなアニメをたった一人で作画しています。

「いったい、どれだけの時間がかかったんだろう?」

そう、究極のハンドメイドアニメです。

当時、テレビアニメ制作の現場にいたぼくは、『木を植えた男』が商業ベースにきちんと乗り、世界に発信されていること自体、信じられないできごとでした。

『木を植えた男』感想

キャラクター造形のこだわりに脱帽

日本のアニメーションキャラクターには、ひとつの型があります。お目目パッチリキャラです。「目は口ほどにモノを言う」なる言葉があります。キャラでもっとも大事なのは「目」でしょうから、アニメキャラのお目目が、どの作品でも皆同じような表現になるのは致し方ないことでしょう。

ところが『木を植えた男』の登場人物の目は、違っていました。全身カットならほぼ、「点」表現です。アップになるとそれは、きちんとした鉛筆デッサンのそれに変わります。

それまでアニメの現場で、当たり前のように疑問持たずに「お目目パッチリアニメキャラ」を描いていたぼくは、はじめてキャラクター造形の大事さ、そして「表現の多様性」に触れました。

目だけではありません。全体を通した作品トーンにもぼくはこう思いました。

「まるでシャガールやピカソの絵が自由自在に動いているようだ」

フレデリック・バックが、シャガール、ピカソを真似ているわけでは決してありません。それだけ美的な芸術性が高い筆致だということです。

『木を植えた男』いくつかの考察

驚くべきフレデリック・バックの創作裏側

ひとりのクリエイター=フレデリック・バックが、一本の作品をどうやって一人で作っているのか?気になりました。

当時、記事か何かでその答えを見つけました。

フレデリック・バックはカナダ国営放送に席があったのです。要はクリエイターとして安定した生活が保証されていた。これにも参りました。(もちろん生活の安定だけで良い作品が作れるものではありません。安定と産みの苦しみは別)

また、フレデリック・バックは、「制作だけに没頭せず、自然の中に居る時間を大切にしている」ということも何かで見聞きし、当時の自分の生活とのあまりの違いに、ガックリと肩を落とした記憶があります。

『木を植えた男』がぼくにくれた3つのメッセージ

「世界を見なさい」

「表現は多様でいい」

「大切なのは、メッセージを伝えること」

その3つがぼくがこのアニメから受け取ったメッセージでした。

その後、ぼくはアニメーターの職を辞し、旅に出、いくつかの仕事を経て、流れで画家となりました。

今にして思えば、『木を植えた男』は、大きな3つの問いかけを投げかけ、大きな波紋を作ってくれたアニメだったのです。

『木を植えた男』と道筋異なるジャパニメーションに未来はあるか?

ビデオを持っているので、時々観るのですが、30数年経った今も、ぼくは古さを感じませんでした。

この30年、日本のアニメーションは技術的にデジタルとともに進化し、世界を席捲しています。しかし、ぼくは『木を植えた男』を観るつどに、ジャパニメーションの「型」が、いまだに数十年前から変わっていないことに気づき、そして逆に小さな危惧を抱きました。

技術は凄まじく変化し、映像はきれいになっていますが、こころを「ドツく」ようなアート性があるかというと、果たしてどうでしょう?…ぼくはクエスチョンマークです。

「どこの国のアニメアーティストが作った作品だろう?」と思われる「型」破りな作品がこの「日本」から生まれて、そして日本人にも高く評価された時、そんな危惧は消え去るんだと思います。良い意味で「型」破りな作品にぼくはまだ、出会っていません。もっとも、ぼくが知らないだけのような気もしますが、、、

印象に深く刻まれる「声と音」

先日、久々に再見しましたが、絵柄はもちろん、音と落ち着いたナレーションが迫ってきました。草はらを歩く足音や、小川の流れ、スープを注ぐ音まで、サウンドがアニメをしっかりと支えていました。心地よいです。

ちなみにナレーションは、名優、クリストファー・プラマー。そう、名ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐です。

絵本朗読が、絵本カルチャーのひとつの流れとなっている昨今、そんな朗読に関わる方々にも、オススメの一本です。

『木を植えた男』の名言、そして忘れたくない言葉たち

最後にちょっとだけ……以下に気に入った言葉をメモっておきます。

「その犬はへつらうことなくひとなつこかった。」

↑いいですね、へつらわず、でも人懐っこいって。好きな言葉です。ほとんど喋らない羊飼いの素養を、この言葉に言い含めたのでは…と思っています。

以下は、ぼくが観ながら傍の紙切れにメモっていた言葉、、、ちょっと恥ずかしいけど書いておきます。映画の名言ではありません。僕が感じて頭に降ってきた言葉たちです。

「戦争という破壊の象徴と、再生の象徴=森を対比させるジャンジオノ、そしてフレデリック・バック」

「一粒一粒のどんぐりを植えるため、一歩一歩歩く。その足音は、森を、未来を創る、確かな足音だ。」

『木を植えた男』レビューの最後に

フレデリック・バックを真似したわけではありませんが、いま、morinokumaは森の中にアトリエを構えています。….それはもしかすると『木を植えた男』を観た1987年からのバタフライエフェクト….かもしれません。

『木を植えた男』配信は?DVDは?

TSUTAYA DISCUSで配信しています。

DVDも販売中。Amazon等で購入可能です。




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