映画『キャリー』(1976|原題: Carrie))レビュー
こんにちは!映画好き絵描きのタクです。
ちょっとばかり面倒な病気になり、ただいま治療で入院中です。(詳しくはNoteにて)
しかし世の中便利になりました。今回は二週間ほどの入院ですけど、病院はWi-Fi完備。サブスクで見たい映画が何本でもベッドでスマホやノートブックで見られるんですから!というわけで、役得活かして毎日点滴受けながらベッドで映画を見てます。(画面は小さいけど)
先日懐かしい映画『キャリー』を配信で見つけたので、早速観てみました。1976年公開になりましたアメリカ映画です。ぼくは当時、高校一年生。ちょうど映画沼にハマりかけてた青春時代、何でもかんでもジャンル問わず映画アタックしていた頃に見た映画です。
監督はあのブライアン・デ・パルマ!…『カリートへの道』『スカーフェイス』『アンタッチャブル』『カジュアリティーズ』『ミッションインポッシブル・1』…と、ぼくは大好きな監督なんです。
ブラッディデパルマとも異名をとった(ような気がする)彼の若かりし頃の映画です。
あっ、普通はキャスト主役の紹介から入るよね、、、。ごめんなさい、興奮しました。
主役がこれまたすごい女優さんです。もう当時は若い若いシシー・スペイセクです。映画出演、彼女はこのときまだ2本目。ぼくはこの映画のシシー・スペイセクを見てぶっ飛びましたっけ。今はもう彼女も70代なんですけどまだまだ元気に活躍しているのが嬉しいです。
2018年の『さらば愛しきアウトロー』では、ロバートレッドフォードとの旧友同士が慈しみ合うような演技に、それはもう切なくて切なくて涙が出そうになりました。
また話がずんずんとそれていきますね。すっと本筋に戻して、それでは45年ぶりに再見した『キャリー』(1976)を、レビューしてみましょう。
『キャリー』(1976)予告編
『キャリー』(1976)スタッフ・キャスト
最初に制作陣と俳優キャストを描いておきます。俳優は『キャリー』後にブレイクする懐かしいヤングアクターの名がずらっと並んでいますよ。
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:ローレンス・D・コーエン
原作:スティーヴン・キング
製作:ポール・モナシュ ブライアン・デ・パルマ
キャスト
役キャリー・ホワイト:(演 シシー・スペイセク(吹替)潘恵子
役マーガレット・ホワイト:(演 パイパー・ローリー(吹替)里見京子
役コリンズ先生:(演 ベティ・バックリー(吹替)武藤礼子
役トミー・ロス:(演 ウィリアム・カット(吹替)三景啓司
役ビリー・ノーラン:(演 ジョン・トラボルタ(吹替)三ツ矢雄二
役クリス・ハーゲンセン:(演 ナンシー・アレン(吹替)吉田理保子
役スー・スネル(英語版):(演 エイミー・アーヴィング(吹替)幸田直子
役ノーマ・ワトソン:(演 P・J・ソールズ(吹替)山田栄子
そう、『ビッグウェンズデー』『新・明日に向かって撃て!』のウィリアム・カットがシシーの相手役トミーなんです。さらには『キャリー』後に『サタデーナイトフィーバー』『グリース』でスターの仲間入りするジョン・トラボルタがしっかりと光を放っています。(トラボルタ、やっぱり(笑)不良役だけど、存在感すごいわ〜)
脇役で出ている女優もナンシー・アレンやエイミー・アーヴィングと、80年代〜90年代を沸かせた作品、、、ナンシーは『ロボコップ』や『殺しのドレス』、エイミーは『フューリー』『コンペティション』でスクリーンを飾ったポップな顔です。
皆、映画『キャリー』を踏み台にしているように思うのは、ぼくだけだろうか???…。
『キャリー』(1976)あらすじ
キャリー・ホワイトは、学校では陰湿ないじめを受け、家では狂信的な母親の厳しい宗教教育に苦しめられている内気な女子高生だ。
ある日、体育授業の終わりに、シャワールームで初潮を迎えてしまう。戸惑い驚きあわてるキャリー。その姿を同級生のクリスやスーは嘲り笑い、いじめ倒す。
その事件をきっかけに、彼女の中に“何か”が目覚める。サイコキネシスの発露だ。
体育教師は、キャリーをいじめた生徒たちへの罰として、彼女たちを処罰する。クリスはキャリーに逆恨みをし、ボーイフレンドのビリーを巻き込んで、キャリーへの陰湿ないじめを計画する。
一方でスーは、自分のしたことを悔い、恋人のトミーに「キャリーをプロムに誘ってほしい」と頼み、トミーはその役を引き受け、キャリーの家に出向き、プロムに誘う。
最初は誘いを断っていたキャリーだが、トミーの熱意に押されてプロムにカップルとして出ることを決める。
そして運命の夜——
キャリーの母親は、キャリーの変化に恐れを抱き、外出を禁じるが、キャリーはトミーと共にプロム会場の体育館に向かう。
素敵なドレスに身を包んだキャリーが、プロム会場に足を踏み入れる。
『キャリー』(1976)あらすじネタバレクライマックス(閲覧注意!)
惨劇の夜、怒りとサイコキネシスの解放
プロムでキャリーとトミーは“キング&クイーン”に選ばれ、人生で初めて幸せを感じるキャリー。しかし、それは壮絶な「さらなるいじめ」の前触れだった。
天井から吊るされたバケツの豚の血が、キャリーの頭上に降り注ぐ。
血にまみれたキャリーの心は崩壊する。
トミーは落ちてきたバケツを頭に受け、倒れ伏す。
キャリーの怒りと恐怖が臨界点を超えたその瞬間、彼女の超能力が暴走し、会場の扉は閉まり、血と炎の地獄と化す。
『キャリー』(1976)ネタバレ結末(閲覧注意!)
以下は完全ネタバレです。映画を見たい方はスルーしてください。
生徒たちを閉じ込め、炎に包まれた体育館を後にキャリーは呆然と家路につく。豚の血にまみれたまま、目は何かが外れたように空(くう)を睨んでいる。
そこに悪戯を仕掛けたクリスはビリーの車でキャリーを追い詰める。が、彼女の一瞥に車は横転、爆爆発炎上。クリスとビリーは炎の中に命を落とす。
家にたどり着いたキャリーは、呆然としたまま、バスルームで豚の血を洗い流す。
バスルームから出たキャリーを魔女と認めた母親が、神に背くものだとナイフで襲いかかる。
再びキャリーの憔悴がサイコキネシスを生み、キッチンのナイフが宙を飛び、母親をドア枠に磔にする。命が消えていく母親に呼応するように、家が崩壊し地面の中へとキャリーを飲み込み消えてゆく。
その後——
生き残ったスーは、ある悪夢に囚われるようになった。
それはキャリーの血に濡れた手が突如として地面から現れ、スーの手を掴み地面に引き摺り込もうという悪夢、、、。
スーの悪夢から覚めた表情で、エンドロール。
『キャリー』(1976)久々に見た感想です
キャリーはグロい?
いや、古い映画だから、今見てどう感じるかな、、、と恐る恐るだったんですが、、面白かった!です。…と、これでおしまいにしたらレビューになりません。
ブラッディデパルマのイメージから、「かなりグロかった?っけかな??」と思っていたんですが、今にみると、さほどでもありません。確かに予告編にあるようにキャリーが血まみれになるシーンはありますが、脚本がしっかり後に繋いでいく必然を持たせています。なのでオッケーという感じ。
クライマックスで一部、ナイフがひとりでに宙を舞い、突き刺さるという「痛いカット」もありますけど、今みるとやっぱりさほどじゃない。これは「青春ホラー」としてのコンセプトみたいなのがベースにあったからでしょう。
そして、すでに「時代が変わってしまった」ことによるように思います。
だって、僕らのリアルな日常の中で血まみれ猟奇的事件が次々起こってニュースとなり、まるで僕らはキャリー並みの情報ブラッディシャワー浴びてるようなもんですから。
キャリーの魅力
今の時代にあえてキャリーの魅力を再発見するなら、それは以下の点に尽きると思います。
それはキャリーが母親から虐待され、学校でも「いじめ」の対象にされてしまっているという、今の社会でもよくみる社会問題の構造をわかりやすくドラマにしていた点ではないでしょうか。
ぼくが高校生だった当時、いじめや家庭内虐待は、今ほどニュースになっていませんでした。しかし、やはりいじめはありましたし、虐待家庭も表に出ていなかっただけでたくさんあったと思います。
『キャリー』は家庭でも学校でも「追い詰められている存在」です。先般『タコピーの原罪』というアニメを見たのですが、ふと思ったのはこの『キャリー』でした。(ぼくは『タコピーの原罪』のコアなファンではないので、間違っているのかもしれませんが。。。)
45年経っても家庭内虐待は子どもに圧をかけ歪みを作り、学校でいじめに連鎖していくのは、全く変わっていないんだな、と思ったのでした。
そんな時代を先取りしていたかのようなキャリーのストーリーは、今なおさらに痛く迫ってきます。
キャリー、君は辛いよね
原作のスティーブン・キングは、もはや文豪と言っても良い作家ですが、その作風にはキリスト教の影響が滲んでいます。なので、贖罪とか、罪を背負って何かをする、、、ってテーマがどこかに滲んでたりします。
『キャリー』の主人公キャリーは、どこまでも無垢なんです。全編通して誰かを憎んだり、貶めようという表情はひとかけらもありません。無垢ゆえにクラスメートの罪や母親の罪を受け止めてしまい、最後は母親を絡め取り地中へ没してしまう。
なんと切なく辛いラストだ、とぼくは思いました。しかし、キリスト教文化圏の「罪を背負う」とはこういうことなのかな、、、とも。ある意味多宗教の日本人にはわからないハッピーエンドなのかもしれないなあ、、、と、エンドロールを見ながら思っていました。
つらつら考察〜血、宗教、超能力、魔女としてのキャリー
映画の中でいくつかわからなかったり、疑問に思ったことがあったので、つらつらと以下に考察を書き記しておきます。あくまでぼくのメモですので、正解とは限りません。
-
初潮の血が意味しているものは?:冒頭シャワー室でキャリーが初潮を迎えます。結構衝撃的なシーンですが、それは、キャリーのサイコキネシスパワーを発露させる原因となった母親の持つ、屈折した偏見=「女性の成熟、生理=穢れという非常に古い偏見」を色彩化、絵画化したものでもあるように思います。そして血の祭典となるクライマックスへつながる予兆であり、暴力・死の象徴、、、のようにぼくは思います。
-
宗教:母親マーガレットの狂信がすごいです。その狂信は、母自身が若い頃の夫との体験から来ています。それが、“女は罪深い”というキリスト教の旧態依然とした価値観と繋がり、無意識内に埋め込まれたのが、母親マギーなのだと思います。だから若い頃の自分をキャリーに投影し、自らを封印・否定したい…それ故のキャリーへの虐待なのでしょう。今、世間に見る家庭内崩壊や虐待の根の一つのように感じました。
-
超能力:なぜキャリーはサイコキネシスを持てたのか?それは社会に適応できなかった者、適応を拒まれた者の“異端”性がエネルギーとして爆縮したもの、とぼくは考えました。
-
魔女のモチーフ:キャリーは多分、中世の魔女狩りの対象と重なっています。悲しいかな、「周囲にとっては理解不能なオーラ=空気感=「なんか、理由わからないけどキモいやつ」として、とりあえず排除される存在」なのでしょう。中世の魔女狩りって、もしかするとそういう村社会に溶け込めない異分子を強制排除する役割を持っていたのかもしれないな、、とも思いました。(多分違うかもしれません。だけど、こうやって思うこと考えることはとっても大事だと思うので、そのまま書いておきます。)人間は怖いです。キャリー、かわいそう、、、です。
『キャリー』(1976)評価は?
今回、あらためて俳優シシー・スペイセクの凄さを再認識しました。
また、若き日のブラッディデパルマのいきいきとしたエネルギーも感じられて、嬉しくなりました。この時代、1970年代は、デ・パルマはスティーブン・スピルバーグやマーティン・スコセッシ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラらと「映画キチガイ同級生」のような関係にあったといいます。
ジョン・トラボルタやウィリアム・カットら若き俳優たちからも、その後の時代を担っていくための若い筋力を感じましたし、そんなアメリカ映画界の生き生きとした時代の空気を深呼吸できました。とても嬉しかったです。
ぼくの評価は星四つ⭐️⭐️⭐️⭐️です。
あらためて、素敵な映画をありがとうございました。
『キャリー』(1976)配信先
『キャリー』配信情報(2025年8月現在)
-
U-NEXT:配信あり(見放題)
-
Amazon Prime Video:レンタル・購入可
※配信状況は変更されることもありますので、必ずご自身でご確認ください。
コメント