『イニシェリン島の精霊』解説|あらすじとネタバレ感想・考察まで〜面白い?つまらない?映画の意味深読み

ヒューマン・ハートフル

こんにちは!映画好き絵描きのタクです。今回取り上げる映画は、『イニシェリン島の精霊』(2023年公開)です。

「予測不可能?」「つまらない??」でも「ヴェネツィア映画祭2冠???」そんな口コミ・紹介・評価が飛び交う映画が『イニシェリン島の精霊』(2023年公開)。



ちなみに「イニシェリン島」は架空の名前ですけど、ロケされた島は、アイルランド・ゴールウェイの沖合に浮かぶアラン諸島=もちろん実在します。アラン諸島はイニシュモア島・イニシュマーン島・イニシィア島の三つの島々からなります。

ぼくはそのロケ地・アラン諸島イニシュモア島にかつて憧れ、旅し滞在したことがあります。映画『イニシェリン島の精霊』の印象そのまんま、何もないけど、森羅万象を司る「何か」を感じる島でした。

アイルランドの小島を舞台にした二人の男の不可思議なドラマを、実際に島の空気を感じた運営人による独断レビューします。


『イニシェリン島の精霊』〜解説〜

1923年、アイルランドの小さな孤島イニシェリン島を舞台に二人の男、主人公パードリックと友人コルムの不可思議な関係を描く人間ドラマです。

パードリックとコルムを演じ流のは、コリン・ファレルとブレンダン・グリーソン。

共演はバリー・コーガン、ケリー・コンドン、他。

2022年・第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門/脚本賞 同映画祭/コリン・ファレルが最優秀男優賞。

第95回アカデミー賞では作品、監督、主演男優(コリン・ファレル)、助演男優(ブレンダン・グリーソン&バリー・コーガン)、助演女優(ケリー・コンドン)にノミネート。



『イニシェリン島の精霊』〜予告編〜

『イニシェリン島の精霊』〜スタッフ・キャスト紹介〜

監督マーティン・マクドナー

キャスト/パードリック:コリン・ファレル|コルム:ブレンダン・グリーソン|シボーン:ケリー・ドンソン|ドミニク:バリー・コーガン



『イニシェリン島の精霊』〜あらすじは?〜

『イニシェリン島の精霊』あらすじは映画.comより転載します。

1923年、アイルランドの小さな孤島イニシェリン島。住民全員が顔見知りのこの島で暮らすパードリックは、長年の友人コルムから絶縁を言い渡されてしまう。

理由もわからないまま、妹や風変わりな隣人の力を借りて事態を解決しようとするが、コルムは頑なに彼を拒絶。

ついには、これ以上関わろうとするなら自分の指を切り落とすと宣言する。

いったいコルムはなぜパードリックを拒絶するのか?

パードリックは、そんなコルムにどう向かうのか?

映画は淡々とした中にも、コルムのバイオリンによる作曲パードリックの妹の文学好きなエピソードを絡め、緊張感あるトーンで進む…そんなあらすじです。



『イニシェリン島の精霊』〜面白くない?意味不明?〜

ぼくは『イニシェリン島の精霊』のレビューコメントで、「淡々と、目立った起伏もなく話が進む…」「意味不明で面白くない」みたいな記事をいくつか目にしていました。
でもね、実際観たら、

「そんなこと全然、ありませんっ!」

ちゃーんとドラマがありますし、山場だってあります。

「面白い映画かな?」って聞かれたら、いわゆるハラハラワクワク、起承転結バッチリタイプを求めて観るなら、「ハズレ!」となるかもしれません。

でも、映画を通して、制作陣と心の対話をする感覚が好きな方なら、心底楽しめると思います。
『イニシェリン島の精霊』は、暗喩や暗示に満ちています。そんな暗喩暗示の意味を考えていると、ずっと頭から離れない映画です。

ぼくにとっては、「人が何かを選び取ることは、何かを捨てること」という残酷さと大切さが迫ってきて、切なくなる映画でもありました。(あ、結論を言っちゃったかも….)



『イニシェリン島の精霊』〜ぼくの感想考察〜

映画に描かれないコルムの過去を読み解く

『イニシェリン島の精霊』で描かれるのは何かというと、

見知らぬ世界への渇望。
馴染んだ世界への安寧。

二人の主人公を通した、この2つのぶつかり合い、そして困惑です。

主人公の一人、コルムは自分の人生への残された時間を、バイオリン=フィドルによる音楽表現という新しい世界に賭けます。

絶縁を言い渡されるもう一人の主人公パードリックは、小さな島で生まれ育ち、自分なりにベストな「いい人」になろうとしている、、、そんな人物です。

コルムはバイオリン(アイルランド音楽の世界では、フィドルと呼ばれる)で作曲に全精魂傾けます。(ちなみに、コルムの書いている曲のタイトルが、映画のタイトルとなっている『イニシェリン島の精霊』です。)

コルムは音楽へのチャレンジのため、すべての時間を音楽に注ぐために、旧友パードリックとのそれまでの関係に封印するのです。

音楽に全てを注ぐためには、今までの島での暮らしの時間軸や人間関係を捨てなければならないことを、彼は体験的に知っていました

「体験的に知っていた」とぼくが書いたのには理由があります。それを以下に書きます。

物語のはじまりから間もなく、カメラはコルムの小さな家の中に入ります。

そこには小物がぶら下がっています。

それは世界各国の土産物。

物語のはじまりからコルムの部屋のそんな小道具をわざわざ見せるのは、コルムという人間の過去体験を表しているからに他なりません。

日本の能面もぶら下がっていますから、これは、ぼくら日本人にとっては、非常にわかりやすい暗示です。
そう。旅小物は、コルムが、若い頃、世界を見てきた体験を暗に示しているのです。



コルムの部屋の小物の暗示

小さな世界からはみ出して、広い世界を見た人=コルム=に、何が起こるでしょう?

異国に身を置き、異文化をシャワーのように浴びると、それまでしがみついていた価値観はポロポロと垢のように流れ落ちてしまいます。

コルムは、そんな若い時代を経験してきたのでしょう。(たぶん)
そしてコルムはなんらかの理由で生まれ育ったイニシェリン島に戻らざるをえなかった。(映画には描かれないけど、たぶん)

歳を重ね、残り時間が少なくなってきたコルムは、ある時決意します。
音楽という表現に残りの人生を賭ける、と。(そんな回想シーンもないけど、たぶん)



表現で生きようとあがくコルムの孤独

表現で食おうという人種は、ある意味、孤独です。
表現で生きようと決意した人は、その道を選ぶからには、何かを「捨てなければならない」ことをれ本能的に察知してしまいます。

その結果、過去の付き合いを、根っこから変えていかなければならなくなることなんて、表現者ならば、ごく当たり前に理解できることです。

表現で生きる!とハラをくくった人種には、遅かれ早かれやってくること、それは、過去との決別なんです。

表現で生きよう、ということは言い換えるなら、既成のモノや社会から「はみ出す」ということです。

コルムは自分が音楽の道を取ったゆえ、自分が島のはみ出しものになることを知っているのです。

小さな島で、「自分のようなはみ出しもの」と付き合うことは、相手を壊すことにもなりかねない。

パードリックをそんな目に合わせたくはない。
だから、コルムはいつも一緒だったパードリックに断絶状を突きつけた…
と、これはぼくの考察です。

監督のマーティン・マクドナー自身、表現者です。彼は表現の世界において、コルムと同じ体験をしてきたはずだ。

そう、脚本の中に自己の過去を投影しているのではないか?と、僕は確信しています



パードリックの子供のような正直さと残酷さ

一方、パードリックは子供のような正直さと残酷さを持っています。残酷といっても大人の残酷さではありません。子供がつく嘘の持つ残酷さです。

多分、観客の多くは、パードリックのとる行動の方が理解できるのではないでしょうか?

だって、皆、昔は子供でしたし、皆が通ってきた道ですから。

パードリックの家で飼っている馬に対する愛情表現や、嘘のつき方。どれをとっても「子供の情景」なのです。

『イニシェリン島の精霊』は、子供の残酷な純粋さ(パードリック)と、そんな世界から抜け出そうとあがく子供(コルム)のドラマなんだとぼくは感じています。

パードリックもコルムも、どちらも純粋なのです。子供は純粋ゆえにぶつかると互いに譲る道を失うのです。

ぼくらの子供時代にもあったじゃないですか。「今日からオマエとは絶交だ!」って。



アイルランド内戦の音は、絶交ドラマのネガフィルム

映画の中で、頻繁に内戦のことが取り上げられます。

戦場が描かれるわけではありませんが、海峡の向こうでは戦闘が行われていることがわかります。

戦争と二人の間にはどんな関係があるのでしょう?

「戦争」というものは、主義がぶつかり合い、そして譲らない結果の国家スケールでの残酷な対立です。

それはパードリックとコルムの間に生まれた絶交ドラマの別の形にすぎません。

そう、イニシュリン島の海峡を隔てた向こうに響く砲弾の炸裂音は、暗に「コルムとパードリックの関係は別に不思議な関係じゃない。それが国家レベルで肥大化したのが内戦なんだ」と、表現しているのです。



旅立つ妹・シボーン

パードリックには本好きな妹シボーンがいます。

本を通して世界を知っているシボーンもまた、コルムと同じように、自分にとっての新しい世界を追い求めていました。

常に島の生活や現状にクエスチョンを持つシボーンの心の動きが、『イニシェリン島の精霊』のドラマに大きな重心を働かせていました。

「コルムと同じように、、、」と書きましたが、決定的に異なるのは、コルムは島を出ませんが、シボーンは島から旅立つ決断をします。

劇中、僕が登場人物の中に晴れ晴れした笑顔を見ることができたのは、シボーンの旅立ちのシーンだけでした。

その笑顔に、監督からの映画を通したメッセージが込められいていると感じました。

「命は短い。やりたいことを見つけたなら、安寧の島を後にしろ」

それもまた僕が受け取ったメッセージの一つでした。



ドミニクに僕が感じた精霊

ちなみに二人を巡って、発達障害を持つ男性ドミニクが登場します。
ドミニクだけは、どんなことをされても「壊されない」、いわゆる裏も表も無く、計算もない、しかし真理を見抜いてしまう、精霊のような存在です。

ネタバレになりますが、ドミニクはクライマックス近く、湖で命を落とします。

ここでぼくの独断考察=精霊をシャーマニズムと結びつけて考えてみます。

太古からシャーマンの役割は今でいう発達障害を持った人が担っていたのではないか?と、以前からなんとなくですが思っていました。

発達障害という言葉になるとマイナスイメージがついて回りますが、いわゆる発達障害がある種、健常者が持ち得ない特技となっていたのがシャーマンだと、これはあくまでぼくの憶測です。

ドミニクのキャラクターからそんな憶測が立ち、ぼくは湖で水死体となったドミニクの姿が、コルムやパードリック、パードリックの妹の抱えた業を一身に背負い贖罪したシャーマン=精霊=イニシュリンの精霊=に見えてなりませんでした。



『イニシェリン島の精霊』〜アイルランド音楽と内戦背景について〜

アイリッシュ音楽とバイオリン

コルムがパードリックを拒絶する理由の一つが「音楽」にあります。

コルムはバイオリンを弾くのですが、アイリッシュ音楽の中でのバイオリンは、いわゆるクラシック音楽の中のバイオリンとは違った位置付けです。かなりポピュラーな楽器なのです。

アイルランド音楽ではバイオリン…という呼び名ではなく「フィドル」と呼ばれます。

日本人にとって「バイオリンを弾く」、、、というとかなりの専門教育を受けているように感じてしまいますが、アイルランドではギターに近い感覚なのでしょう。

なので、コルムがあんな小さな島でバイオリンを弾くのは、全く不思議ではないのです。



背景に横たわるアイルランド内戦

映画の中で海の向こうで爆弾の炸裂音がします。その音はアイルランド内戦の暗示です。

描かれる時代は1920年代ですが、アイルランドは内戦という暗雲が全土を覆っていました。

『イニシェリン島の精霊』全編を通して、うっすらと内戦がほのめかされている…。

内戦という対立は、当然のことながら、この物語のテーマである「二人の男の対立」を暗喩していると思います。

ということは、映画に描かれる主人公パードリックと友人コルムの対立世界は、組織の対立、国家の対立の縮図=暗示だと僕は考えています。



『イニシェリン島の精霊』評価に代えて〜

『イニシェリン島の精霊』がぼくにくれた最大のメッセージは、

「求めるためには、何かを断たなければならない」でした。

アイルランドのはずれの何もない小さな狭い島での物語ではありますが、なぜか今のぼくらが暮らす日本と日本人社会を思い起こさせる映画でした。

『イニシェリンの精霊』を、日本に暮らすぼくらの社会=会社だったりコミュニティだったり=にダブらせてみる。そうすることで、日本の社会で隠されていた新しい景色が見えてくるように思えます。

ぼくの評価は、星4つと半分です。

なぜ半欠けだったか?指を切り落としたシーンが、きつかった、、、から。…痛いの嫌いですから。それだけです。



 

さて、ここからは運営人のアラン島訪問記です。もしかすると映画理解の足しになるかもしれません(ならないかもです)どうぞご覧ください。

『イニシェリン島の精霊』ロケ地・アラン諸島滞在日記

イニシュモア島にて。バックパッカーだった運営人。息子は当時3歳。

コメント

  1. くさかつとむ より:

    ロバの出てくる映画に駄作無しです(個人の感想です)

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