こんにちは!映画好き絵描きのタクです。今回レビューする映画は、デンマーク映画の『わたしの叔父さん』です。
映画に何を求めますか? 奇想天外? 波瀾万丈? 冒険活劇? それとも笑いあり悲しみありのドラマでしょうか?
残念ながら『わたしの叔父さん』はどれも当てはまりません。
もし予告編を見て、「つまらなそうな映画かな」と感じたら、受け取る心のチューナーのつまみを少しずらしてみましょう…
そうすることで、『わたしの叔父さん』は心に響く映画になると思います。
この記事では静かな映画『わたしの叔父さん』の一つの見方を伝えたいと思います。
『わたしの叔父さん』予告編
『わたしの叔父さん』解説
『わたしの叔父さん』は、2019年に作られたデンマーク映画です。第32回東京国際映画祭でグランプリを取りました。
監督はフラレ・ピーダセン。なんとひとりで監督・脚本・撮影・編集を担当しています。
『わたしの叔父さん』で描かれるのは、農村で酪農を営む一人の女性と、共に暮らし、彼女が面倒を見ている体の不自由な叔父の、二人の日々です。
『わたしの叔父さん』あらすじは?
『わたしの叔父さん』あらすじ
両親を亡くした若い女性クリスが主人公。彼女は身体の不自由な老いた叔父と暮らしている。
クリスは朝起きると叔父のために朝ごはんをつくり、二人で黙々と食べ、叔父と牛の面倒を見る。たまに叔父と二人で日用品の買い物に出かけ、夕べにはテーブルの上でゲームに興ずる。そんな日常の繰り返しだ。
ある日、牛の出産と子牛の病気を機に、彼女はかかりつけの獣医先生ヨハネスに、新たな道へ進むことを提案される。彼女のセンスを見抜いたヨハネスは獣医への道を開こうと、聴診器や専門書を彼女に貸し与える。
とき同じくして、彼女は一人の若い男性マイクと知り合う。マイクはクリスに好意を寄せる。
出会った二人に、叔父さんの目はあくまで温かい。
彼女の人生にやってきた、そんな「新しい出会いと別れ道=岐路」を、彼女はいかに受け止め、どんな決断していくのか…?
『わたしの叔父さん』ラストは?〜閲覧注意ーネタバレありです
あらすじから続きます。ラストはネタバレですので、映画を観る方は飛ばしてください。
獣医の道を薦められたクリスは、コペンハーゲンで開催される獣医ヨハネスの講義に同行する。(ここで、クリスはほとんど暮らす町から出たことがないことが暗に示される。)
講演当日、叔父さんが牛舎で倒れ、入院となる。講演先で焦り取り乱すクリス。新たな道への第一歩かと思えた、ヨハネスの講義への同行の1日は、おじさんの怪我により一変する。
酔ったマイクとも口論となり、溝が生んでしまうクリス。
ラスト10分は、クリスとマイク、クリスとヨハネス、クリスと叔父さんの時間が、次のように描かれ、そして終わる。
農場牛舎の外、クリスとの仲を修復しようと、彼女に会いにいくマイクだが、クリスは聞く耳を持たない。
それどころか「性欲を満たしたいだけならどうぞ」と言わんばかりの行動をとる。そんなクリスを優しく抱えることしかできないマイク。
のちにクリスの家のポストに手紙を投函するマイク。ポストに落とすその姿は、何かを吹っ切ったように、間合いがない。部屋で手紙を読むクリス。表情は、ない。
獣医ヨハネスがクリス宅を訪れる。しかし、気づいたクリスは、借りていた医学書や聴診器を無造作にヨハネスの車中に置き、ヨハネスに会おうとしない。車中に置かれた聴診器を見つけ、静かに顔が曇るヨハネス。カット変わって室内に佇んだままのクリスは、静かに目線をわずかに落とす。
シーン変わってスーパーマーケットでショッピングカートに食料品を入れるクリスと叔父さん。今まで何度も登場した二人それぞれの寝室と、洗面所の蛇口、そしてダイニングでのテレビを見ながらの二人の無言の朝食シーンが繰り返される。
と、テレビが消える。壊れたのか??二人の間に会話はないが、食卓で初めて視線を交わす。
ここで唐突に暗転、エンド。エンドクレジットへ。
そう、実に淡々としたラストです。しかしぼくは唐突さが生んだ余韻が、想像力を新たに刺激するラストだと感じました。
見るひとそれぞれのチューニングで、余韻がいくつも生まれる〜この後のクリスたちがどうなっていくのかをそれぞれに脚色できる〜そんなラストだ、と、思います。
『わたしの叔父さん』ぼくの感想
『私の叔父さん』は、画家ミレーの超有名な絵画『晩鐘』を映像で観るような映画です。
そう、ぼくは映画を観ている途中から、農民画家とも言われた、ミレーの絵を何度も何度も思い出していました。
ミレーの絵に描き出されているのは、大地とともに生きることへの賛辞であり、崇高さです。
そして、映画に描かれるのは、「普通すぎる日常」の持つ隠れた高潔さ。平凡であたりまえなことへの絶対的な賛辞。
そう、この映画は、大地に生きる人々の日々を、映画というものがたりで表現した、21世紀の『晩鐘』であり『落ち穂拾い』だ、と感じました。
今の世の中において、「認められたい」「勝ちたい」「注目されたい」と思わない人はいないでしょう。
しかし、主人公の彼女の取る行動は、そんな今のスタンダードな流れに対して、やさしく、でも、断固としてNOを突きつけます。
「夢は叶う!」「チャンスは手に入れるものだ!」「やりたいことを選び取れ!」
そんなちまたに洪水のように溢れている、スローガンがありますよね。それらは間違ってはいないけど、多分、誰かが儲けのために広めている…そんなスローガンでもありますよね。
この映画は、そんなスローガンたちに、清らかに、でも高らかに「ちょっと待って!」と歌っているようにも思えました。
『わたしの叔父さん』考察:平凡な日常の持つ意味
「人の暮らしとは一体何なんだろう?」
映画『私の叔父さん』は、誰でもが思い当たるそんな疑問への、また、平凡な日常生活への、一つの答えです。
日々というものは、誰の日々であっても、映画やテレビドラマのようにドラマチックなものではありません。平凡の繰り返しです。
でも、多分、その平凡をこつこつと積み重ねていくことで、人は成長していきます。
情報過多なぼくらが、ついつい勘違いしてしまうのは、スポットライトの当て方次第で、平凡なものも輝いて見えてしまい、「ライトが当たっていないものは輝いていない!」と思いがちなこと。
ライトを取っ払えば、意外と為している日常は、誰もが同じようなことなんだとおもいます。スポットライトは、常に当てる側の意志=コントロールが働いています。
『私の叔父さん』には監督からの『スポットライトに気をつけろ』というメッセージが、暗に込められている気がしてなりません。
この映画はそんな大切なことを気づかせてくれる一本だとも感じました。「平凡」が、実はとてつもなく愛おしいものである。そう、気づかせてくれた映画でした。
『わたしの叔父さん』考察:監督が美しいシーンに託した思いとは?
『私の叔父さん』は、撮影がとても美しいです。「この映画は全編、心象風景画だ」とぼくは感じました。
そして、監督は、登場人物の「心のうち」を、カメラで切り取った風景に「代弁」させているように思えてなりませんでした。
たとえば、主人公がはじめてのデートするシークエンスがあります。
主人公は彼と2人の初めてデートする丘の上で話をする。
つづくロングのカットでは、遠くに鳥の群れが舞う。群鳥の群れの波のような動きは、カット内にシルエットで登場している3人の心の内を表現しているように思えます。
そのシークエンスの終わりに2人が別れるシーンがありますが、恋心のゆらぎを静かに演出しています。
そして続くカット。
劇中で、初めて「晴れるシーン」が登場します。「晴れ」に監督は何を託したのか?
そして続く、跳ね回る子牛たちのカット
さらにたたみかける、牛に寄り添い座る主人公の美しくも楽しいワンシーン。
セリフは一切無いのですが、「シーン」に雄弁に語らせています。
このように、ワンシーンごとの風景や背景、その構図に「日々の生きる辛さ、そして喜び」をあらわしているように思えました。
最後に一つ、『私の叔父さん』を観て思ったことを書いておきます。
「人は、誰でもが、小さな嘘をく。それも繰り返して。しかし人は、誰でもが、小さな正直もまた繰り返す。」
なぜかそんなメッセージを僕は受け取りました。
『私の叔父さん』は聖人君子の物語ではありません。脚色が練りに練られた起承転結ヒーローものでもありません。
『人生において、嘘と正直は表裏一体。なおかつ愛おしいもの』と思えました。
『わたしの叔父さん』驚きのキャスト
最後にキャストのことを書いておきます。
主役の女性役はイェデ・スナゴー。
酪農家の叔父役はペーダ・ハンセン・テューセン。
なんと2人は、実の姪と叔父です。
そして、叔父役のキャリアに驚きました。それは…
…映画を観ている最中、「叔父役の俳優、すごい演技だな…北欧の役者さん、名前知らんし、でもたぶん有名な役者さんなんだろうな…」と、思って観ていました。
観終わった後に、気になりすぎて、公式サイトで調べました…
すると、なんと、彼はホンモノの酪農家。
それも映画出演は初!とのこと。
…酪農家としてはプロフェッショナルですが、役者としては、素人さんだったのです。
監督の演技を引き出す力量もすごいけど、見事に返したペーダさんの力もまたすごいです。
『わたしの叔父さん』ぼくの評価です
静かな映画でしたけれど、ラストまで一気見。終わった後も余韻がしばらく続き、まいりました。降参…の映画でした。
僕の評価は、星四つ半です。
『わたしの叔父さん』配信は?
観てみたい方は、Prime Videoで配信中です。U-nextでも見ることができます。
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