『許されざる者』(1992)ネタバレあらすじ・考察|ラストの意味、悪人は誰なのか?

西部劇

『許されざる者』レビュー
限りなく星4つに近い星3.9⭐️⭐️⭐️✨✨✨

本記事は、筆者個人の感想をもとに制作した映画レビューです。
物語の結末を含むネタバレがあります。未鑑賞の方はご注意ください。

こんにちは!映画好き絵描きのタクです。

今回レビューするのは、クリント・イーストウッド監督・主演の西部劇『許されざる者』。

1992年製作のアメリカ映画で、日本では1993年に劇場公開されました。

65回アカデミー賞では作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞の4部門を受賞しています。




ぼくはこの映画を日本公開当時、劇場で観ています。

そのとき強烈に感じたのが、

「これは今まで観てきた西部劇とは違うぞ」

ということでした。

監督・主演のクリント・イーストウッドといえば、『荒野の用心棒』などのマカロニ・ウェスタンでスターとなり、『ダーティハリー』シリーズで大ブレイクした俳優です。

つまり、ある意味では「強いガンマン」を演じ続けてきた人。

そのイーストウッドが、自分自身が築き上げてきた西部劇のヒーロー像を、自らの手で壊してしまった。

それが『許されざる者』です。

公開から約30年を経て改めて観てみると、若かった頃には見えなかったものも、いろいろと見えてきました。

今回は、

「なぜマニーは再び殺し屋に戻ったのか?」

「リトル・ビルは本当に悪人なのか?」

そして、

タイトルの『許されざる者』とは、一体誰のことなのか?

そんなところまで考えてみたいと思います。





『許されざる者』あらすじ|ウィリアム・マニーが再び銃を取るまで

物語は1880年代、アメリカ・ワイオミング。

主人公ウィリアム・マニー(クリント・イーストウッド)は、かつて残虐非道で名を馳せたアウトローでした。

酒を飲み、人を殺し、悪事の限りを尽くした男。

しかし一人の女性、クローディアと出会ったことで人生が変わります。

結婚して酒を断ち、銃を捨て、過去と決別。

妻はすでに病で亡くなっていますが、マニーは二人の子供とともに農場で豚を飼いながら暮らしていました。

しかし、その生活は困窮を極めています。

一方、ワイオミングの小さな町ビッグ・ウィスキーでは事件が起きていました。

娼婦デライラが二人のカウボーイによって顔をナイフで傷つけられたのです。

怒った娼婦たちは金をかき集め、二人のカウボーイの命に1000ドルの賞金をかけます。

この噂を聞きつけた若い賞金稼ぎ、スコフィールド・キッド(ジェームズ・ウールヴェット)がマニーのもとを訪れます。

「一緒に二人を殺して賞金を山分けしよう」

最初は断るマニー。

しかし、貧しい暮らしと二人の子供の将来を考え、ついに再び銃を手にします。

さらに昔の仲間ネッド・ローガン(モーガン・フリーマン)を誘い、三人はビッグ・ウィスキーへ向かうことになります。

ところが、かつて恐れられた殺し屋マニーの面影は、もうありません。

拳銃の腕は鈍り、馬に乗ることさえままならない。

雨の中を移動して高熱を出し、町では保安官リトル・ビル・ダゲット(ジーン・ハックマン)に一方的に叩きのめされてしまいます。

「えっ?マニーってこんなにダメダメだったっけ?」

30年ぶりに観たぼくも、ここはちょっと驚きました。

しかし、この「弱くなったマニー」こそが、『許されざる者』という映画の重要なところなのです。




『許されざる者』結末・ラストをネタバレ解説

以下はネタバレとなりますので、映画を観る方はスルーしてくださいね。

+ + +

三人は賞金のかかったカウボーイたちを追い詰めていきます。

しかしネッドは、標的を目の前にして引き金を引くことができません。

かつて人を殺していた男が、人を殺せなくなった。

老いたからでしょうか。

いや、それだけではないと思います。

彼には帰る家があり、妻がいる。

ネッドは賞金稼ぎから降り、一人で家へ帰ろうとします。

ところが、その途中でリトル・ビルの一味に捕らえられてしまう。

拷問を受け、そして殺されます。

ネッドの死を知らされたマニー。

そのときです。

マニーは、長い間断っていたウイスキーの瓶を手にします。

そして静かに酒を飲む。

この瞬間、映画の空気が変わります。

マニーはキッドから銃を受け取り、単身ビッグ・ウィスキーへ戻ります。

酒場にはリトル・ビルと男たち。

そこへ、雨に濡れたマニーが現れる。

もはや、豚に悪戦苦闘していた農夫マニーではありません。

かつて人々から恐れられていた、

「殺し屋ウィリアム・マニー」

が帰ってきたのです。

銃撃戦の末、マニーはリトル・ビルを倒します。

倒れたリトル・ビルは言います。

「俺はこんな死に方をするような人間じゃない」

それに対するマニーの答えが、この映画を象徴しています。

「報いは関係ない」

善人だから助かるわけではない。

悪人だから死ぬわけでもない。

人を殺すということは、そんな単純な因果応報ではない。

マニーはリトル・ビルを殺し、町の人間たちにネッドをきちんと埋葬すること、娼婦たちを粗末に扱わないことを告げ、雨の中へ消えていきます。




’92年公開当時、そして’23年再見時の感想ダブルレビュー

日本公開当時、ぼくは劇場で『許されざる者』を観ました。

当時のぼくは、かなり高得点をつけています。

特に覚えていたのがクライマックス。

「おまえら、ゆるさん」

とでも言うように、静かに「悪魔のマニー」へ豹変していくイーストウッド。

あの姿には痺れまくった記憶があります。

ところが約30年後、改めて観てみると印象が少し違いました。

思っていた以上に、物語は淡々と進みます。

そして何より、

覚醒する前のマニーが、びっくりするほど格好悪い。

銃の腕も鈍っている。

馬にもまともに乗れない。

熱を出す。

リトル・ビルにはボコボコにされる。

若い頃のぼくは最後の「強いマニー」に目を奪われていました。

でも歳を重ねた今観ると、むしろこちらの「弱いマニー」の方が気になります。

人間は歳を取る。

人は変わる。

そして、どんな過去を持った人間にも生活がある。

『許されざる者』は西部劇の格好をしていますが、描かれているのは、ものすごく人間臭いドラマなのだと思います。




考察① なぜマニーは酒を飲んだ瞬間、昔の殺し屋に戻ったのか?

今回、改めて観ていて強く引っかかったのが「酒」です。

ネッドの死を知ったマニーは、ウイスキーを飲みます。

一見すると、

「親友を殺され、怒りに震えて酒をあおった」

だけにも見えます。

でも、ぼくはそうではないと思いました。

マニーにとって断酒とは、亡き妻クローディアとの約束であり、新しい人生そのものだったのではないでしょうか。

妻と出会う前のマニーは酒を飲み、人を殺していた。

しかし妻と出会い、酒を断ち、銃を捨てた。

つまり、

酒を飲まないマニー=妻によって生まれ変わった現在の自分

なのです。

だからネッドの死を聞いて酒瓶を手にする場面は、とても怖い。

銃を持った瞬間ではない。

酒を口にした瞬間、マニーは自ら封印を解いてしまった。

妻クローディアによって救われた男が、自分の意志で、妻と出会う前の自分へ戻っていく。

その後、彼の顔から表情が消えていきます。

酒場へ入ってきたマニーは、冒頭で豚に悪戦苦闘していた男とはまるで別人です。

「昔の腕を取り戻した」というより、

昔の自分そのものが戻ってきた。

ぼくにはそう見えました。

だからこそ、この変身は格好いいだけではありません。

むしろ、とても悲しいシーンなのです。




考察② リトル・ビルは本当に悪人なのか?

『許されざる者』が、それまでの西部劇と大きく違うところ。

それは、

「わかりやすい悪役がいない」

ということです。

昔ながらの西部劇なら、極悪非道の町のボスがいて、正義のガンマンが現れ、最後に悪党を撃ち倒す。

勧善懲悪です。

ところが『許されざる者』は違います。

敵役となる保安官リトル・ビルは、確かに暴力的です。

イングリッシュ・ボブを公衆の面前で叩きのめし、ネッドには苛烈な拷問を加える。

決して「善人」とは言えません。

しかし同時に彼は、町を無法者から守ろうとしている保安官でもあります。

ビッグ・ウィスキーには「火器は保安官事務所に預けること」というルールがある。

つまりリトル・ビルは、

「拳銃をぶら下げたアウトローが町を支配する時代は終わった」

と考えている人物にも見えます。

賞金稼ぎイングリッシュ・ボブを町から追い出す場面などは、その象徴でしょう。

彼は古い西部の暴力を終わらせようとしている。

ところが、そのために自分自身が暴力を使ってしまう。

ここが面白い。

法を守る者も暴力を振るう。

元殺し屋は家族を愛する。

娼婦たちは仲間を傷つけられ、復讐のために殺人へ賞金をかける。

賞金稼ぎに憧れていた若者は、実際に人を殺して震える。

誰が善人で、誰が悪人なのか。

線が引けないんです。




考察③ スコフィールド・キッドが教える「人を殺す」ということ

若いスコフィールド・キッドも重要です。

最初の彼は、自分を凄腕のガンマンのように語ります。

ところが実際に人を殺してしまうと、完全に様子が変わる。

人を殺すという行為が、自分が想像していた「西部劇の格好いい世界」とは全く違うことを知るのです。

キッドはもう人を殺したくないと言います。

この若者の変化は、映画そのものの変化にも見えます。

つまり『許されざる者』は、

西部劇が作り上げてきた「銃で悪党を倒す格好よさ」を、西部劇自身が否定している映画

なのではないでしょうか。

人を撃てば、倒れる。

そしてその人間には人生があった。

家族がいたかもしれない。

夢があったかもしれない。

マニーがキッドに語る「人を殺す」という行為の重さ。

そこに『許されざる者』という映画の根っこがあるように思います。




考察④ 『許されざる者』が西部劇の常識を壊した理由

要するに『許されざる者』は、「古き良き西部劇」ではありません。

登場人物の職業や舞台だけを見れば西部劇です。

ガンマンがいる。

保安官がいる。

酒場がある。

娼館がある。

賞金稼ぎがいる。

でも、そこで起きている人間ドラマは、ぼくらが今生きている世界にも置き換えられます。

誰も完全には強くない。

誰も完全には正しくない。

そして誰も、自分の過去から完全には逃れられない。

何よりイーストウッド自身が、それまで演じ続けてきた「無敵のガンマン」という神話を壊しています。

馬にも乗れない。

銃も当たらない。

歳も取った。

人を殺すことにも理由が必要になった。

西部劇のヒーローを現実の人間まで引きずり下ろしてしまった。

でも、だからこそ最後に「昔のマニー」が戻ってきたとき、恐ろしく強烈なのです。

ヒーローが覚醒したのではない。

封印されていた殺人者が戻ってきた。

同じクライマックスでも、意味がまるで違います。

そこが、この映画の凄さだと思います。




「許されざる者」というタイトルの意味|本当に許されないのは誰なのか?

ではタイトルの『許されざる者』とは、誰なのでしょうか。

最もわかりやすい答えは、もちろんウィリアム・マニーでしょう。

マニーは過去に多くの人を殺してきました。

妻との出会いによって人生を変えたとはいえ、その過去が消えるわけではありません。

そして最後には再び人を殺す。

しかし、ぼくは「許されざる者=マニー」だけではないと思います。

リトル・ビルも暴力を振るう。

カウボーイは女性を傷つける。

娼婦たちは復讐のために殺人を依頼する。

キッドは人を殺すことに憧れる。

そしてマニーは復讐する。

誰も完全には無罪ではありません。

だからぼくには、あのラストの夕暮れの向こう側に、

「人はみな何かしらの罪を背負っている。完全な善人などいない。誰もが『許されざる者』なのだ」

そんな目に見えない言葉が書かれているように感じました。

この映画には「悪役がいない」というより、

誰の中にも悪がある。

そう言った方が近いのかもしれません。

そして同時に、誰の中にも善がある。

だから人間はややこしい。

だから面白い。

30年後に改めて観て、ぼくが一番強く感じたのはそこでした。




人は最後にどこへ帰ろうとするのか?

もうひとつ、この映画を観ていて感じたのが「帰る場所」です。

マニーもネッドも、かつては恐れられたアウトローでした。

しかし歳を重ねた二人が求めているものは、もはや荒野でも名声でもありません。

ネッドには妻が待つ家があります。

マニーの心には、亡き妻クローディアとの暮らしがあります。

二人は荒野の伝説である前に、

「帰る場所を求める普通の人間」

になっているんですよね。

ネッドは結局、殺人を続けることができず、妻の待つ家へ帰ろうとします。

しかし帰れなかった。

そのネッドを殺されたことで、マニーの中に封印されていた過去が戻ってしまう。

人はどこから来たのか。

そして最後にどこへ帰ろうとするのか。

『許されざる者』には、そんな「老い」と「帰る場所」の物語も流れているように感じます。

若い頃に観たときには、ぼくはここまで考えませんでした。

30年という時間を経て同じ映画を観る。

すると映画は同じなのに、こちら側が変わっている。

映画を観直す面白さって、こういうところにもありますね。




エンドロール「セルジオとドンに捧ぐ」の意味

『許されざる者』の最後には、

「セルジオとドンに捧ぐ」

という言葉が登場します。

セルジオとは、セルジオ・レオーネ。

『荒野の用心棒』などを監督し、クリント・イーストウッドを世界的スターへ押し上げたマカロニ・ウェスタンの巨匠です。

そしてドンとは、ドン・シーゲル。

『ダーティハリー』などでイーストウッドと組んだ監督です。

つまり二人とも、俳優・映画監督クリント・イーストウッドを作ったと言ってもいい人物。

『許されざる者』は、西部劇というジャンルへの決別のようにも見える作品です。

しかしそれは、西部劇を否定するための決別ではない。

自分を育ててくれた映画への最大限の敬意を込めて、その先へ進む。

「セルジオとドンに捧ぐ」

という言葉には、そんなイーストウッドの思いも込められているように感じます。



『許されざる者』スタッフ・キャスト

役名/クレジット 俳優・担当者
監督/ウィリアム・マニー クリント・イーストウッド
脚本 デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
製作 クリント・イーストウッド
撮影 ジャック・N・グリーン
編集 ジョエル・コックス
リトル・ビル・ダゲット ジーン・ハックマン
ネッド・ローガン モーガン・フリーマン
イングリッシュ・ボブ リチャード・ハリス
スコフィールド・キッド ジェームズ・ウールヴェット
WW・ボーシャン ソウル・ルビネック
ストロベリー・アリス フランシス・フィッシャー
デライラ アンナ・トムソン



『許されざる者』ぼくの評価は?

公開当時の劇場鑑賞と、約30年後の再見。

点数をつけるなら、

公開当時:85点くらい。

30年後の再見:79点くらい。

不思議なことに、点数そのものは少し下がりました。

でも、映画から見えてくるものはむしろ増えています。

若い頃には「悪魔のマニー、格好いい!」と痺れた。

歳を重ねた今は、その悪魔になる前の「弱いマニー」が気になる。

これは映画が変わったわけではありません。

ぼくが変わったんですね。

最終的な評価は、

限りなく星4つに近い、星3.9

⭐️⭐️⭐️✨

『許されざる者』は単に「名作西部劇」として観るだけでは、ちょっともったいない映画です。

善と悪。

老い。

暴力。

過去。

家族。

帰る場所。

そして、人は本当に過去から生まれ変わることができるのか。

30年以上経っても、いろいろな問いを投げかけてくる作品でした。



おまけ|マカロニ・ウェスタンとは?

余談ですが、クリント・イーストウッドが出演した『荒野の用心棒』などは、日本では「マカロニ・ウェスタン」と呼ばれています。

なんでマカロニなの?

……って、ちょっと気になりますよね。

イタリアで盛んに製作された西部劇を指す日本独自の呼び方で、海外では一般に「スパゲッティ・ウェスタン」と呼ばれているそうです。

若き日のイーストウッドは、その世界で「無口で強いガンマン」というイメージを作り上げました。

だからこそ、そのイーストウッド自身が歳を重ねて『許されざる者』を撮り、

「ガンマンは、本当に格好いい存在なのか?」

と問い直したことには大きな意味があると思います。

『許されざる者』は西部劇を終わらせた映画ではなく、

西部劇を愛した人間だからこそ作ることのできた、西部劇への問いかけ。

30年ぶりに観直して、ぼくにはそんな一本に思えました。



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