『野のユリ』あらすじ・ネタバレ感想|「永遠の名作」…と思っていた歴史的映画45年ぶりの再見レビュー

ヒューマン・ハートフル

こんにちは!映画好き絵描きのタクです。今回レビューで取り上げる映画は『野のユリ』。1963年公開のアメリカ映画です。

監督はラルフ・ネルソン。主演は名優シドニー・ポワチエ。

一人の黒人の流れ者の「何でも屋」ホーマー・スミスが、車の冷却水を分けてもらうため立ち寄った小さな家は尼僧たちの信仰の家でした。

「教会を建てたい」という尼僧たちの信仰心に図らずも巻き込まれてゆくスミス。ポワチエの歌う「エイメン」が響く映画です。

ちなみに音楽を手がけた作曲家は、20世紀の映画音楽を牽引したジェリー・ゴールドスミスです。



『野のユリ』このシーン、ステキ!〜シドニー・ポワチエの「エイメン」

この映画の見どころベストシーンを最初にアップしておきます。英語がわからないドイツ系の尼僧たちにシドニー・ポワチエ演じるスミスが「エイメン」を歌い教えるシーンです。




『野のユリ』あらすじ

一人の黒人ホーマー・スミス(シドニー・ポワチエ)がアリゾナの砂漠に車を走らせている。

彼の仕事は「流しの何でも屋」だ。放浪の先々で手伝いを見つけては収入を得ている。

スミスは砂漠の真ん中で車の冷却水が足りなくなり、一軒の家を訪ねる。

見つけた家には東ドイツから逃れてきた5人のドイツ人修道女が住んでいた。

マリア院長は、スミスを「神が遣わした者」と言い、「神の仕事」として砂漠の荒野に教会を建てる手伝いを命ずる。

信仰心のないスミスはそんなマリア院長の言葉に戸惑いながらも、屋根の修理だけは引き受けることにする。

修道院長はしかし賃金を支払おうとしない。それどころか、マリア院長は無理やりホーマーに教会建設にとりかかるように迫る。

スミスは次第に彼女たちのペースに巻き込まれ、嫌々ながらも彼女たちに協力するようになっていくが、修道会にはお金がない。すなわち資材も足りない。

資材不足を伝えるスミスに、マリア院長は、「祈っているから大丈夫だ」の一点張りだが、こっそりと地元土木会社に資材提供を願い出、投資ファンドに寄付を頼む手紙を出す。

実はスミスの夢は建築家になることだった。教会建設に熱意をしめすスミス。協力を申し出る周囲の人々。しかしスミスは独力での教会建築にこだわり、協力を断る。

資金難、資材不足の中、修道院長が口にする言葉は「祈っているから大丈夫」というスミスには理解できない言葉だけ。

果たして教会は完成するのか?

…といったあらすじです。



『野のユリ』あらすじネタバレ結末〜閲覧注意

紆余曲折を重ねる教会建築作業は、村人の押しかけボランティアと土木会社社長の資材提供で、なんとか完成する。

その夜スミスは、別れの日が来たことを確信、修道女たちに別れの言葉がわりに「エイメン」の歌を捧げ、再び放浪の旅に出る。

エンドロール。

ぼくと『野のユリ』の出会い

ぼくがはじめて『野のユリ』を観たのは高校生の時…今から45年ほど前、地方都市の名画座でした。
当時の感想は、『めちゃくちゃ感動!トリハダ!こりゃ永遠の名作だよ!満点ムービー決定!』でした。
その後、なかなか見る機会に恵まれずに今に至りましたが、常に、「いつかまた観たい一本」でした。

そして45年の時が流れ、アマプラでの配信作に見つけた時、「こりゃ必見だ!」となったのです。
で、観てみました。
ちなみにアマプラの星マークは四つ半と高得点でした。

しかし…

ここからは先は、『野のユリ』を観たい方、または過去に観て感動した方には、冷や水かけてしまいます。なので先に謝っておきますね。



『野のユリ』ぼくの感想

まるで悪いオトナになったみたいな自分

「さて、45年ぶりの感動との再会だ!」と、ワクワクして再生をクリック。

……..。

おかしいな?しかし、どこまで観ても、当時の「感動」がやってこない…。

さらに観続けても、あれ?トリハダ…もたたないよ….。

え?こんな映画だったっけ…?

…と、なんだか感動しない自分が、まるで悪いオトナになったみたいで、気がつけばエンドロール….気まずい思いで観終えました。



映画の感動は、登場人物とストーリーに寄り添えるかどうかです

全編通して、修道女長(ってイイのかな?尼僧のトップです)の「祈りは聞き入れられる」という頑固さとスミスの現実的な生き方がぶつかり合います。
それが映画の核になっていると思うんですが、「祈りは聞き入れられる」という頑固さが、今のぼくには受け入れられません。
修道女は教会を建てたい。だから祈る。
それだけじゃあなんともならんことも知っているから、「祈っていれば大丈夫」と言いつつ、寄付願いの手紙を書く。
その姿をスミスには見せたくない上に、とことんスミスの気持ちに寄り添わない…。

ぼくの心の中は、「その態度はないだろう」という連続。なんといいますか、ダメでした。受け入れられなかったのです。

それはたぶん、ぼく自身が数十年フリーランスとして生きてきたことで、その日暮らしのスミスの生き様と考えに、かなり肩入れするようになってしまったからなのかもしれません。
「スミス!そこまでやる必要、あるか?ほっとけよ!」と、何度思ったことか。(すみません、ぼく、人間できてません)

他に、教会建築に村人たちがボランティアで協力するシーンがあります。
そんな村人の姿勢も、あまりに唐突すぎて、まったく気持ちが同調できない。

もう、観るのが辛くなるほどでした。

『野のユリ』分析〜感動した十代〜感動がなかった六十代の理由

ぼくが初めてこの映画を観て感動しまくったのは、高校生の時でした。

当時のぼくは、まだ世の中のことなんてわかっていません。今もだけど。
だからスミスのどこまでも無私な援助もひたすら崇高なものに見え、村人の協力へのくだりはとても美しいものに感じたのでしょう。

まあ、今でもぼくは、世の中のこと、さっぱりわかっちゃいません。

しかし、少なくともぼくがこれまで30年やってきた「その日暮らし経験」から得た「生きてく中でこれだけは大事だよな」という「ぼくが大切にしてること」と、映画からぼくが受け取った印象とは波長が合わなくなっていたのでしょう。

ぼくは映画『野のユリ』を決して否定しているのではありません。

『野のユリ』はいまもなお名作として歴史に残っており、評価が素晴らしく高い映画です。

おそらくぼくのような感想は少数派なのでしょう。

要は、あくまで、ぼくの過去の経験が、『野のユリ』のメッセージと合わなかった、、、ということです。

この映画は、自分がどういう状況に置かれているかで、見方が変わってくるのでしょう。

あと20年後、もしぼくが生きていれば、改めて再見してみたい、、、とも思いました。

ポワチエと修道女の掛け合う「エイメン」は永遠のゴスペルソング

良かったシーンも、もちろんあります。
シドニー・ポワチエと修道女が「エイメン」を歌うシーンは絶品です。
ゴスペルトーンで掛け合うんですがは、今見ても名シーンですね。
ゴスペルヒットミュージカル『天使にラブソングを』のルーツは、多分『野のユリ』にあると思います。
そのシーンにニコニコと破顔したのは、高校時代も45年経った今も同じでした。

それは、ぼくにとって、救いでもありました。



『野のユリ』ぼくの評価

というわけで、複雑な思いで観終わった映画でした。

十代の頃の評価は、星五つだったはずなんですが、六十代になって再見した今回の評価は、、、う〜ん、評価下すとますます悪いオトナになってしまいそうで悲しくなるので、評価外ということにしておきます。



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