映画『ヤクザと家族 The Family』レビュー
血と家族、そして居場所を失った男の物語
今回、ムービーダイアリーズで取り上げるのは、『ヤクザと家族 The Family』。
「家族とは何か?」「人はどこに居場所を持つのか_」
そんな問いを、ひとりの男の人生を通して真正面から描いた作品です。
観終えたあと、胸の奥に重く沈むものがありました。
それは決して後味の悪さではなく、“生きることの重さ”そのものだったように思います。
そんな『ヤクザと家族 The Family』の感想レビューを書いてみます。
映画『ヤクザと家族 The Family』解説
『ヤクザと家族 The Family』は、2021年公開の日本映画です。
監督・脚本は藤井道人。主演は綾野剛です。
タイトルだけ見ると、いかにも任侠映画のようですが、この作品が見つめているのは、単なる抗争や義理人情ではありません。
描かれるのは、ヤクザという世界の中でしか居場所を持てなかった男が、時代の変化の中でどう生きるかという問題です。
主人公・山本賢治は、父を失い、怒りと孤独を抱えたまま柴咲組に身を寄せます。そこで彼は、親分・柴咲博や仲間たちの中に“家族”のようなつながりを見いだしていきます。
しかし時代は変わり、暴力団を取り巻く社会の空気も大きく変わっていく。
かつては通用した生き方が、もう通用しなくなっていくんですね。
この映画が重いのは、ヤクザを美化するのでも、単純に断罪するのでもなく、その世界にしか居場所を持てなかった人間のその後に目を向けているところです。
暴力団排除という流れは社会の正しさとして存在する。
でも、その正しさの先で、そこでしか生きられなかった人たちはどうなるのか。
『ヤクザと家族』は、その問いをとても静かに、しかし鋭く突きつけてきます。
綾野剛、舘ひろし、尾野真千子らの演技も見応えがあり、任侠映画という枠だけでは収まらない、人間ドラマとして強い余韻を残す作品です。
派手なカタルシスよりも、生きづらさや喪失感、不器用な人間の切実さが胸に残る映画でした。
『ヤクザと家族 The Family』あらすじ(ネタバレなし・途中まで)
1999年、父を亡くし孤独の中にいた少年・山本賢治は、
地元のヤクザ・柴咲組の組長、柴咲博と出会う。
荒々しくも情に厚い柴咲に惹かれた賢治は、やがて組の一員となり、
“家族”としての絆の中で生きていくことを選ぶ。
時代は流れ、暴力団排除条例が施行され、
社会の中でヤクザの存在は急速に居場所を失っていく。
それでも賢治は、柴咲という“父”のような存在を守るため、
そして自分の居場所を守るために、その世界に留まり続ける――。
『ヤクザと家族 The Family』あらすじ(ネタバレあり・結末まで)
やがて柴咲組は時代の流れの中で弱体化し、
組そのものの存在意義が問われるようになる。
賢治は結婚し、娘を持ち、
“本当の家族”を手に入れるが、
その一方でヤクザという立場が、彼の人生を縛り続ける。
過去のしがらみから逃れられず、賢治は再び罪を犯し、服役する。
出所後、彼を待っていたのは、
もはやヤクザを許容しない社会と、崩れかけた家族の現実だった。
それでも彼は、娘のために生き直そうとする。
だが、社会は彼を簡単には受け入れない。
最終的に賢治は、かつての因縁の中で命を落とす。
彼の死は、時代に取り残された一人の男の終焉であると同時に、
“居場所を持てなかった人間の最後”として静かに描かれる。
『ヤクザと家族 The Family』感想
『ヤクザと家族 The Family』で描かれるのは、ズバリ、
「一度ヤクザという世界に足を踏み入れた男が、時代の変化の中でどう生きるか?」
です。
もっと言えば、
「社会からはみ出した人間に、やり直す場所は本当にあるのか?」
という問いを、真正面から投げてくる映画だと感じました。
ヤクザ映画と聞くと、抗争や仁義、人情や裏切り…そういったものを思い浮かべる人も多いと思います。もちろんこの映画にもそうした要素はあります。
でも『ヤクザと家族』が本当に描いているのは、そこではありません。
描いているのは、時代に置いていかれた男の人生そのものです。
主人公・山本賢治は、もともと器用に世の中を渡っていける人間ではありません。若い頃の彼は荒っぽく、怒りっぽく、危うい。けれどその一方で、情に厚くて、義理を重んじる男でもあります。
だからこそ彼は、柴咲組という世界に“家族”を見てしまったのだと思います。
ここが、この映画の一番苦しいところですね。
普通なら、家族というのは人を守るもののはずです。
けれど山本にとっての家族は、彼を守ると同時に、彼をその世界に縛りつけるものでもあった。
タイトルの「家族」は温かい言葉なのに、この映画ではそれがそのまま鎖にもなっているんです。
その意味で、この映画は単なる任侠映画ではなく、
「人はどこに居場所を求めるのか?」
を描いた映画でもあると思います。
綾野剛が見せた“不器用な男”の説得力
この映画を支えているのは、やはり綾野剛の存在感だと思います。
若い頃の山本は、怒りのエネルギーで生きているような男です。危なっかしいし、暴力も近い。見ていて「この男はこの先、まともには生きられないかもしれないな」と思わせる空気があります。
でも、ただ粗暴なだけではないんですよね。そこに、寂しさや不安、誰かに受け止めてほしい気配がちゃんと滲んでいる。
だから観ている側も、山本を単純に“怖い男”としては見られません。
そして後半になると、その山本が年を重ね、社会の中で立ち尽くす男へと変わっていきます。
昔なら腕力や気迫で突破できたことが、もう通じない。
組という世界そのものも変わってしまった。
時代は進んでいるのに、彼だけが昔のまま取り残されていく。
綾野剛は、その変化を大げさに見せるのではなく、表情や佇まいの端々で見せてくれます。そこがうまいです。
特に後半の山本からは、怒りより先に“しんどさ”が立ち上がってきます。
もう頑張り方がわからない。
でも、生きるしかない。
そんな疲れが、全身からにじんでくるんですね。
断崖絶壁の端っこを進むような「生きるしかない」という残された道。
ここは、かなり胸に来ました。それは、ぼく自身、描いて生きるしかないオールウェイズ崖っぷちの道を選んでしまったからなのかもしれません。
舘ひろし演じる柴咲博の大きさ
そしてもう一人、この映画の核になっているのが舘ひろし演じる柴咲博です。
柴咲は組長ですが、ただ怖いだけの親分ではありません。
山本にとっては、父親のような存在でもあります。
山本は父を亡くしていて、人生の早い段階で“拠り所”を失っています。
そんな彼にとって、柴咲組は初めて自分を受け入れてくれた場所だったのではないでしょうか。
そう考えると、山本が柴咲に忠義を尽くすのは、単なる任侠の美学だけではなく、もっと根の深い感情だったように見えてきます。
つまり彼は、組に尽くしているというより、
自分を拾ってくれた家族にしがみついている
んですね。
だからこそ切ないんです。
もしこれがただの仕事のつながりなら、時代が変われば離れればいい。
でも、家族だと思ってしまったら、そう簡単には離れられません。
そこに山本の不幸があるし、この映画の痛みもあると思いました。
『ヤクザと家族』は暴力団を肯定する映画ではない
ここは大事なところですが、この映画は暴力団の世界を美化している映画ではないと思います。
暴力は暴力ですし、山本もまた、多くのものを壊してきた側の人間です。
そこはちゃんと描かれています。
でも一方で、この映画は、
「では、その世界から出た人間を社会はどう受け入れるのか?」
という問いも投げています。
一度はみ出した人間が、真っ当に生きようとした時、社会は本当に受け皿になってくれるのか。
口では更生だ、社会復帰だと言います。
でも実際には、過去を背負った人間に向けられる目は冷たい….。
まっとうに働こうとしても、簡単にはいかない。
居場所を作ろうとしても、世間はそうやすやすとは許してくれない。
『ヤクザと家族』が苦しいのは、そこの現実を見せてくるからです。
暴力団排除が進むこと自体は、社会の流れとして理解できます。
でも、その排除の先にいる人間たちはどうなるのか。
そこに視線を向けないまま「正しいことをした」で終わってしまっていいのか。
映画は、そういうこともまた静かに問いかけてきます。
この映画は、排除された人間を、その後どう生かすのかをも問う映画なのだと思います。
工藤由香という“もう一つの家族”
尾野真千子演じる工藤由香の存在も、とても大きかったです。
由香は山本にとって、組とは別の人生の可能性を象徴していたように見えました。
穏やかな暮らし。
普通の家庭。
誰かと一緒に、ごく当たり前の日々を積み重ねること。
それは山本が本当は欲しかったものかもしれません。
でも彼は、そこへまっすぐ入っていけない。
過去もあるし、背負っているものもあるし、自分自身の性格もある。
要するに、彼は「普通の幸せ」に手を伸ばしたくても、その手をどこかで引っ込めてしまう人間なんですね。
ここがまた苦しい。
山本は、家族を求めている。
でもその一方で、すでに組という疑似家族に深く絡め取られている。
このねじれがあるから、由香との関係は、ただの恋愛要素では終わりません。
本当なら行けたかもしれない人生の分かれ道として、ずっと残ります。
時代の変化が山本を追い詰める
『ヤクザと家族』を観ていて強く感じたのは、これは個人の悲劇であると同時に、
時代そのものの映画
だということです。
昔の任侠の価値観には、少なくとも映画の中では、人情や義理といった美学がありました。
もちろん現実はそんなに甘くはないでしょうが、それでも山本のような人間は、その美学の中で自分の立ち位置を信じて生きてこられた。
ところが、時代はそれを許さなくなっていきます。
法が変わり、社会が変わり、ヤクザという存在そのものが居場所をなくしていく。
すると、その中でしか生き方を知らなかった人間も、同時に足場を失っていくんですね。
ここがこの映画の残酷さです。
山本はたしかに自分でその世界を選んだ。
でも、その選んだ先にあった価値観ごと、時代に消されていく。
その時、彼は何を支えに生きればいいのか。
映画はその答えを簡単には出しません。
だから後味が苦いんです。
観終わってスカッとする映画では全然ありません。
むしろ、どうしようもないやるせなさが残る。
でも、そのやるせなさこそ、この映画がちゃんと現代を映している証拠だと思いました。
『ヤクザと家族』が最後に残すもの
この映画を観終わったあとに残るのは、「ヤクザって大変だな」という感想ではないはずです。
たぶん多くの人の胸に残るのは、
「居場所を持てなかった人間は、どこへ行けばいいのか?」
という問いではないでしょうか。
人は、ただ正しいことを言われるだけでは生きていけません。
必要なのは、受け入れてくれる場所であり、自分がここにいていいと思える関係です。
山本は、その“いていい場所”を組の中に見つけてしまった。
けれど時代は、その場所を奪っていく。
そして社会は、代わりの場所を用意してくれない。
この構図が、本作をとても現代的な映画にしていると思います。
『ヤクザと家族 The Family』は、任侠映画の形を借りながら、
実はかなり普遍的な人間の孤独を描いた作品です。
家族とは何か。
居場所とは何か。
やり直しとは何か。
社会とは誰のためにあるのか。
そうした問いが、観終わったあともじわじわと残ります。
そしてぼくは、この映画のタイトルにある「家族」という言葉を、見終わったあと以前よりずっと重く感じました。
家族は人を支えるものです。
でもときに家族は、人を縛り、戻れなくするものでもある。
その両方を見せたところに、この映画の深さがあると思います。
一言で言うなら、『ヤクザと家族』が描いたのは、暴力団の物語ではなく、“居場所を失った人間”の物語でした。
どんな人にだって“居場所”は必要です。
そんな視点で映画を味わいたい方へ、ムービーダイアリーズのレビュー作品から3本、オススメを選んでみました。
『ヤクザと家族 The Family』刺さった方へのおすすめ映画は?
①『すばらしき世界』👉過去を背負った人間は、社会に戻れるのか?
『ヤクザと家族』ともっとも地続きで響く一本のように思います。アウトローの社会復帰の難しさ、不器用な生き様、そして人間の尊厳。山本賢治に胸を締めつけられた人なら、三上正夫の姿にもきっと心を持っていかれると思います。
②『グリーンマイル』👉法制度は人を裁けても、人間の心まで裁けるのか?
ジャンルは違っても、法制度と人間のぬくもりがぶつかる構図は共通しています。善悪では割り切れない苦さや、救われなさの中にある静かな光が、『ヤクザと家族』の余韻と深くつながるように思います。
③『コットンテール』👉喪失とは、それでも人を前に進ませるものなのか?
任侠映画ではありません。けれど、大切なものを失ったあともなお、人は誰かを思いながら生きていく。その静かな痛みとやさしさは、『ヤクザと家族』の後味に通じるものがあります。派手さではなく、心の深いところに訴える一本です。
『ヤクザと家族 The Family』考察
家族とは?
『ヤクザと家族 The Family』を考える上で大きいのは、やはりタイトルの「家族」という言葉だと思います。
この映画に出てくる家族は、血のつながった家族だけではありません。
むしろ本作が描いているのは、血縁ではないのに家族のように機能してしまう共同体の危うさと切実さです。
山本にとって柴咲組は、単なる暴力団組織ではありません。
自分を認めてくれた場所であり、生き方を与えてくれた場所であり、父を失った自分にとっての“父の代わり”がいる場所でもあります。
つまり山本は、最初からヤクザになりたかったというより、居場所を求めた結果としてその世界に入っていったように見えます。ここが本作の大切なポイントだと思いました。
アウトローに社会の受け皿は必要ないのか?
悪の道に憧れて入るという単純な話ではなく、他に受け皿がなかった人間がそこへ吸い寄せられていくのです。
だからこそ、この映画は「ヤクザが悪い」で終わる作品にはなっていません。
もちろん暴力団という存在そのものを肯定しているわけではありませんが、一方で、社会から排除された人たちがそのあとどこへ向かえばいいのか、という問いが強く残ります。
出所後の山本が直面する現実はまさにそれで、過去を消せない人間には、まともに暮らすための足場があまりにも少ないのです。
本作が描いているのは、ヤクザの衰退そのものではなく、「排除はするが、その先の再生は用意しない社会」の誤解恐れずに言えば、プラスチックのような無機質さなのではないでしょうか。
山本は決して善人ではありません。暴力も犯しますし、堅気の世界の論理から見れば許されないことも多い。
けれど、そんな彼を社会は「もう戻れない人間」として扱い続ける。その結果、また別の闇に押し戻されてしまう。そこに本作のやりきれなさがありました。
時系列を通して描かれたヤクザ社会の終焉
また、この映画は“任侠の終わり”を描いた作品としても読めます。
柴咲博は、古い時代の任侠の価値観を引き受けた人物です。義理、人情、面倒見のよさ。かつてのヤクザ映画なら、その価値観はある種の美学として描かれてきました。
けれど『ヤクザと家族』では、その美学がもう時代に噛み合わなくなっています。
山本はその最後の継承者のような存在で、だからこそ余計に観ている方も苦しい…。
彼は時代遅れなのではなく、もう存在してはいけない価値観を背負わされてしまった男にも見えました。
そして、この映画が優れているのは、山本を単純な被害者にもしていないところです。
彼は、怒り、愛し、失うことを自ら選びとった人間です。
だから観客はただ同情するだけでは終わりません。
悪いことをしてきた男であることは間違いないのに、それでも彼の孤独や不器用さが分かってしまう。そこにこの作品の複雑さがあるんだと思います。
善悪では割り切れない、人間のややこしさがきちんと残されているのです。
滲み出る社会の不寛容
私がこの映画を観て強く感じたのは、本作はヤクザ映画である前に、**「居場所を失った人間の映画」**だということです。
組という家族。恋人と築けるかもしれなかった家族。社会の中に持てるはずだった居場所。山本はそのどれかひとつでも確かなものとしてつかめていれば、違う人生があったのかもしれません。
けれど彼は、そのすべての間で揺れ続け、最後までどこにも完全にはたどり着けない。だからこの映画は、見終わったあとに強い喪失感を残します。
『ヤクザと家族 The Family』は、裏社会を描きながら、実は現代社会そのものの不寛容さや孤立を映した作品です。
そしてタイトルの「家族」は、ぬくもりの象徴であると同時に、人を縛り、逃れられなくする鎖りでした。そこにぼくは映画のスタッフが、この映画のタイトルに込めた深い洞察と想いを感じました。
同室になったヤクザと画家・・・実話です
この映画を観ていて、ずっと針で心のある場所をチクチクとつっつかれているような感覚がありました。その場所とは、”画家として生きているぼく自身”いう場所でした。
画家とヤクザって、どこか似通っているところがあるように思えたのです。
いや、もちろん、画家は反社会的職業ではありません。ヤクザとは全く別の世界の人間です。画家の中には公処良俗に反したアート表現をして、結果お縄になるアーティストもいますが、少なくとも暴力的ではありません。
いや、やはりアーティストって社会規範スレスレのところを突っつき攻めるからアートなのかもしれない、と考えると、やはりヤクザと通じるところがあるのかもしれません。
ここでぼくの体験談をワンエピソード、書いておきます。ちなみに実話です。
10年ほど前、ぼくは体調を崩し入院したことがあります。その時通された病室は、二人部屋でした。
ぼくの隣のベッドに入院していた人は、初老の男性。その男性はとにかく喋るのが好きで、以前そのスジにいたことがあるということがわかりました。そう、足を洗った元ヤクザだったんですね。
日を追うにつれ、結構な武勇談をぼくに話して聞かせるようになりました。少々閉口しましたが、まあ、害はなさそうなので、それなりに聞き流していたのです。
ところがある日、「ところで兄ちゃんはどんな仕事をしているんだい?」と聞かれ「画家です」と答えると、「ほう、絵描きさんか。オレは今まで会ったことないな、絵描きさんには」。
「ところで、絵描きってどうやって食ってるんだ?」と聞かれたぼくは、「毎日絵を描いて、「個展」で壁に並べてみてもらって、もしお客さんが気に入ってくれたら買ってもらえる」と言うようなことを話しました。
すると、突然黙り込んだのです。
そしてこう言いました。
「…てことはだ、兄ちゃんは、”誰が買ってくれるかわからんものを、毎日描いている”のかい?」
「注文で描いてる絵もありますが、まあ、そういうことですね。」と答えると、
「だとすると、もしかするとゼニにならねえってこともあるんだろ?そんな割に合わねえ仕事があるのかい??ヘタクソなギャンブルじゃねえか。う〜〜ん、信じられねえな。」
とまた黙りこくって、窓の外を眺めながら「信じられねえ、わからねえ…」と小声でブツブツ
その男性が「今度は、いつその個展ってのをやるんだい?」と聞いてきたので、
「来月ですね。◯◻︎△デパートでやりますよ」とぼく。
「そうか、もし生きて退院できたら、兄ちゃんの絵を買いに行くわな」と男性は返してくれました。
男性はかなり病気が進行しており、腹は腹水でパンパン。入退院を繰り返していて、先はそんなに長くない様子は看護師さんとのやりとりでわかりました。
それでも看護師の目を盗んで、缶コーヒーを買いに行っては、必ず2本買ってくるのです。そして、ぼくに一本渡して「同じ部屋のよしみってやつだ。ほれ、コーヒー付きあえ」
「いや、ここ病院だし、、、ムショじゃないし…」とは思っても流石に言えず。もらったコーヒーを飲みながらまた武勇伝に付き合うぼくでした。
ぼくは間もなく退院。無事個展は開催できたのですが、結局、その元ヤクザだった男性は、個展に現れることはありませんでした。
話が映画からそれましたね。『ヤクザと家族』をみていて、その男性のことがちらついていたんですね。
「世界が変われば信じられない仕事となるのがアートでもあるんだな」…それがチクチクの原因だったように思います。
『ヤクザと家族 The Family』スタッフ・キャスト表
スタッフ
|
項目 |
内容 |
|
監督 |
藤井道人 |
|
脚本 |
藤井道人 |
|
音楽 |
岩代太郎 |
|
主題歌 |
millennium parade「FAMILIA」 |
|
製作 |
「ヤクザと家族 The Family」製作委員会 |
キャスト
|
役名 |
俳優名 |
役どころ |
|
山本賢治 |
綾野剛 |
主人公。柴咲組で生きることになる男 |
|
柴咲博 |
舘ひろし |
柴咲組組長。山本に居場所を与える父のような存在 |
|
工藤由香 |
尾野真千子 |
山本が出会う女性。もうひとつの人生の可能性を示す |
|
中村努 |
北村有起哉 |
柴咲組の若頭。組を支える幹部格 |
|
細野竜太 |
市原隼人 |
柴咲組組員。山本の周囲で生きる男 |
|
木村翼 |
磯村勇斗 |
若い世代の人物。時代の変化を映す存在 |
|
木村愛子 |
寺島しのぶ |
翼の母。山本たちと関わる重要人物 |
|
大迫和彦 |
岩松了 |
組や社会の動きに関わる人物 |
|
加藤雅敏 |
豊原功補 |
山本の周辺で物語に関わる人物 |
|
竹田誠 |
菅田俊 |
組関係者 |
|
川山礼二 |
駿河太郎 |
関係者 |
『ヤクザと家族 The Family』 ぼくの評価は?
ぼくの評価は星四つ⭐️⭐️⭐️⭐️です
昔なら任侠映画のジャンルに分けられるだろう主人公たちの生き方や社会の中での位置付けを、藤井道人監督が、過去の任侠映画に囚われずに独自の、なおかつ若いフレッシュな視点で捉えていると思います。
ヤクザの世界を描いていますから、The Familyとついていても、ファミリー向け、万人向けとは言えないと思います。が、新しいドラマを観てみたい方にはおすすめだと思います。
『ヤクザと家族 The Family』配信情報
・Netflix
・Amazon Prime Video(レンタル)
・U-NEXT(レンタル)
※配信状況は変更されることがあります。


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