『関心領域』音と音楽の怖さ考察
『関心領域』。(原題-The zone of interest-)は、第二次世界大戦を舞台とした映画だ。しかし戦場は一切出てこない。舞台となるのは、高く築かれた煉瓦塀に隣接する屋敷だ。
その屋敷とは、アウシュビッツ絶滅収容所司令官ルドルフ・ヘス一家の住んでいた邸宅だ。
映画で描かれるのは、「幸せに暮らしているヘス一家」の日常、そしてその日常から覗く狂気だ。
この映画では実に様々な映画的試みがなされている。そのことは別記事で書いているけれど、音(音響)と音楽がこの映画の柱の一つになっている。
本記事では音と音楽から、それらの意味と怖さを考察してみようと思う。
(総合レビュー記事は別記事で書いていますので、こちらからどうぞ↓
映画『関心領域』ネタバレ解説|リンゴ・母親の行動・白黒カット・ラスト暗闇の意味まで考察レビュー
考察1〜音もまた人を狂わす
『関心領域』の映画としての存在意義は、すでに何人もの映画評論家も書いているけれど、「音」が人の潜在意識に刷り込む怖さ、を訴えた点だろう。
立派な屋敷に暮らすヘス一家の日常が描かれるわけだが、屋敷の傍に延々つづく塀の反対側、すなわち絶滅収容所内で行われている行為の発する音が、くぐもったようにどこまでも響く。
音は、ともすると遥か遠くの街音…どこか遠くの工場の作業音のようにもきこえるが、美しく花が植えられたヘス一家の敷地の数メートル外の強制収容所内で行われている作業や抑圧の音なのだ。
遠くくぐもったように聞こえるのは、高い塀があるがゆえの聞こえ方だ。
時々、「ポン」と響く音は、銃声だ。
それらの音を、『関心領域の』の音響マンは見事に表現した。
考察2〜我々を取り巻く雑音の影響
ここで、我々の普段の日々を振り返ってみよう。
毎日の暮らしの中で、実は我々は、自分とは関係のない無数の音=人工音に取り囲まれて暮らしている。
家の脇の道路を走る車の音や足音。通り過ぎる人の話し声。遠くから微かに響く電車の音。実はそういった自然以外の音が渾然一体となって、我々を否応なしに取り囲んでいる。
実は聴覚が鋭い人ならば病気=何らかの症候群に陥ってもおかしくないほどの音の洪水なのだと思う。
さらに環境音は、重奏的だ。
音楽の和音法則など一切無視した形でわれわれの日常に降り注ぐ。
和音に満ちた音楽が人の心を癒すものならば、逆の無秩序生活音重奏が心にどんな影響を与えるのか?
その生活音重奏が潜在意識に働きかける怖さは、想像するに難くない。(ぼくはこれは、研究対象となってもおかしくないテーマだとさえ思う。もしかするとすでに研究されているのかもしれない)
実は、私の仕事場は仙台市内のマチナカと蔵王連峰の森の中の2箇所にある。
毎週半々の割合で、異なる環境で仕事をしているのだけれど、市街地のアトリエから森の中に移動すると、日々、どれだけ人工音に囲まれているのかを気付かされる。
森の中のアトリエは、葉の擦れる音、風の音、遠くを流れる渓流の音、すなわち自然の音以外、人工音が皆無なのだ。
自然以外の音が、本当に、ない。
そのことは人の心を大きく解放させてくれる。
登山やハイキングで人里離れた大自然の中に立ったことがある人なら誰でも経験していることだと思う。
この経験は『関心領域』に一つの理解を与えてくれる。
『関心領域』で聞こえてくる音は、くぐもって意味をほとんどなしていないが、明らかに抑圧と殺戮の音だ。機関車の音。ガス室に送られる音、掻き出された灰を乗せたトロッコの音。銃声、くぐもった叫び声。そういった「音」だ。
戦争映画で表現される音響=戦場の爆発音や機銃音、兵士の悲鳴=とはベクトルは正反対だけれど、塀の向こうで静かに進められているのはユダヤ人絶滅計画であり、音の本質は、大量に命を消し去る作業音なのだ。
無意識のうちに聞こえてくる「日常音」を、それと知らずにシャワーのように浴びることが、一体どういうことなのか?という問いを『関心領域』は我々に突きつけている。
その答え映画の中に探すならば、劇中途中から登場するヘスの母親が説明役となっている。
途中、ヘスの屋敷にやってきた母親は次第に無表情となり、浴びるように酒を飲みはじめ、挙句に何も告げずに家からいなくなる。
この母親の、劇中の役割はまさに「無意識下に日々殺戮の音を聞かされ続けた人間の姿」だ。
考察3~音がくれたアウシュビッツ殺戮収容所への新視点~
『関心領域』は、アウシュビッツの悲劇を、新たな視点から掘り起こしている。
映画は、「平凡な日常と殺戮は、実は薄い際どい膜で隔てられているだけだ」という狂気の真実を、ルドルフ・ヘス一家の淡々とした一見平和な日常からあぶり出す。
しかし同時に劇中描かれるヘス一家の日常が、我々を取り巻く平凡な日常にも繋がっている(!)と気づく時、『関心領域』は新たな一面を見せ始める。
その一面に気づかされたのは、クライマックス近くに唐突に差し込まれる「今」の「アウシュビッツ収容所」のカットだ。
アウシュビッツをテーマにしているこの映画であるが、それまでにカメラが収容所内を映し出すことは一切、ない。
クライマックスでヘスが暗闇に視線を送るシーンがあるのだが、その直後「はじめてカメラが塀の中に入る」のだ。(この構成の凄さ)同時にスクリーンから響くのは轟音とも聞こえる掃除機の音だ。
そして、殺戮収容所の展示品である遺物=殺された人々の衣服や義足といった遺品の山=が写し出されるのだけれど、そのシーンで掃除機の音で持って監督があぶり出したのは、”今のアウシュビッツ収容所内の日常音”なのだ。
そのシーンでは館内に掃除機をかけ、窓を拭くといった、平凡な資料館の日常が映し出される。
その「今の日常音」こそが、それまで延々と響いている塀の内側の音に対する「問いかけ音」ではないか….とぼくは思う。
ヘス一家の屋敷内に響いてくる塀の内側の殺戮日常音に対比するようにクライマックスで響く、資料館を掃除する掃除機の音、窓を拭く音。
どちらも「ただの音」だ。
人という存在は、自身を取り囲む「音」もまた大事な構成要素なのだ…
ぼくは監督が今と過去の音を媒介に『関心領域』に託した思いは、ただ単に「負の遺産アウシュビッツではこんなことがあったんだ」という証明だけではなく、「新たな視点で見直す必要がある」というメッセージだと感じている。
考察4~ラストの掃除機の音が意味するもの
ラスト、ヘスの目線は、映画を観ているぼくらを現在に強制的に送り返す。
その転換に驚いたと同時に「やられた…」とぼくは思った。
この映画のテーマをささえるのは、無意識のうちにぼくらを形作る景観音だ。
ラストで今に送り返されたぼくらは、現在のアウシュビッツを捉えたそのシーンで、うるさいまでに掃除機の音を聞くことになる。
それは今のどこにでもある音だ。
冒頭からアウシュビッツの塀の向こうのくぐもった音を聞かされ続けた後の、リアルな騒々しい掃除機の音。
それはいつのまにか、塀の向こうを気にしなくなっている(!)ぼくら観客を叩き起こすかのような音だ。(まるで、居眠りしかけた学生が机をドン!と叩かれるような。)
もちろんドン!したのは監督だ。
ぼくは、その、ドン!に、答えなければならない…と思った。
考察5~ワンシーンだけ途切れた「音」の意味
劇中、延々に音が聞こえているのだが、その音が一箇所だけ、途切れるシーンがある。もちろん、観る側はハッとさせられるのだが、それはヘスの妻が育てた花々をクローズアップで捉える数カットの時だ。
それは殺戮の音を浴びながらも嬉々として庭づくりをするヘスの妻。育てられた花はその「おぞましさの権化」としての表現なのだと、ぼくは感じている。
それは、「無音」という「音」が掲げた無言のメッセージだ。
「本来美しい花」を「美からかけ離れた存在」として切り取った映画を、ぼくは他に知らない。
考察6~終わらせない音楽
エンドロールの音楽が秀逸だ。
これほどまで不安で不快感を残すエンドタイトルは聞いたことがない。不協和音とも違う、前衛音楽のそれとも違う。
シーンの背景に延々と流れていた「音」を、さらに印象づけるような曲想が劇場から去った後も心に中に響き続ける。
そして、観終わって劇場を後にしたぼくは、外に出ても考えることを強いられ、映画が終わっていないことに気づく。
それはラストエンドロールの不思議な音楽のせいだ、と、ばくは感じている。
結論〜むすびにかえて
『関心領域』は、音と音楽で”攻めてくる”映画だ。
映画は演技とカメラ、そして音響、音楽の総合芸術だと思っているけれど、過去、これほど音に胸を掴まれた映画はなかったかもしれない。
映画史に刻まれる傑作だと思う。
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